2009年07月05日
ブライトナー

パウル・ブライトナー
(Paul BREITNER)
フルネーム パウル・ブライトナー
国籍 ドイツ(西ドイツ)
生年月日 1951年9月5日
出身地 コルヴェルモール
ポジション DF(LSB) MF(LMF)
身長/体重 176cm/73kg
個人タイトル 81西ドイツ年間最優秀選手
チームタイトル 70/71,81/82DFBカップ
71/72,72/73,73/74,79/80,80/81 ブンデスリーガ
73/74UEFAチャンピオンズ・カップ
74FIFAワールドカップ
74/75,75/76リーガ・エスパニョーラ
74/75コパ・デル・レイ
所属クラブ 1970〜74 バイエルン
1974〜77 R・マドリー(スペイン)
1977〜78 A・ブラウンシュヴァイク
1978〜83 バイエルン
キャリアの序盤は、激しいタックル、無尽蔵のスタミナでの機を見計らった攻撃参加やパンチ力のあるシュートを武器とした左SBとして台頭、その後経験を積むにつれゲームメークやフィニッシュと攻撃力が上がり、攻撃的MFとしてバイエルンやドイツ代表に栄光をもたらしました。
その破天荒なプレースタイルはもとより、パーマとひげをたくわえた独特の風貌、「愛読書は毛沢東語録」などのような言動も注目を集めた異端児でした。
6歳でボールを蹴り始め、ユース時代はフライブルクでリベロとしてプレー。1970年にバイエルンへ引き抜かれますが、「皇帝」ベッケンバウアーの存在により中盤へポジションを移します。そしてG・ミュラーやヘーネスなどと共に牽引車となり、国内カップを手始めに、71/72シーズンからリーグ3連覇を果たすと、73/74シーズンには決勝でイングランドのリーズを下しドイツ勢として初のチャンピオンズ杯制覇を成し遂げました。
1974年W杯終了後にR・マドリーへ移籍、同胞のMFネッツァーと共に攻撃を組み立て、リーグ2冠・2連覇の原動力になくてはならない存在となりました。R・マドリーでのの3年間を終え、ブラウンシュヴァイクではスペイン移籍を経てさらに攻撃力が増し、自身初のシーズン2ケタゴールをマークすると、78/79シーズンに復帰したバイエルンでもキャプテンに就き、得点源としてもルンメニゲと共に活躍、翌シーズンからのリーグ2連覇とカップ戦優勝にも多大な貢献をして見せました。82/83シーズン途中に負傷し、そのままスパイクを脱ぎました。
引退後はバイエルンのスタッフとなっています。
1971年6月22日、アウェーのノルウェー戦にて代表デビュー。シュネリンガーの「3」を受け継ぎ、翌年の欧州選手権では優勝メンバーに名を連ねました。
1974年W杯では全試合に出場。チリ戦、ユーゴスラヴィア戦ではロングシュートを、決勝オランダ戦では22歳とチーム最年少ながら大事なPKを冷静に決め、優勝に大きく貢献しました。
1975年10月11日、ホームのギリシャ戦を終えた後ドイツ協会と対立して代表から離れ、1978年W杯に出場しませんでした。その後1982年W杯直前に代表復帰し、キャプテン、そして攻撃の起点としてチームを準優勝に導きました。イタリアとの決勝でPKを決めたことで、ブラジルのババ、ペレに次ぎ複数の大会の決勝でゴールを挙げた3人目の選手となりました(4人目は2006年大会で達成したジダン)。
代表記録 48試合10得点
情報提供 football island様 http://www.football-island.net/
2009年06月23日
C・マルディーニ

チェーザレ・マルディーニ
(Cesare MALDINI)
フルネーム チェーザレ・マルディーニ
国籍 イタリア
生年月日 1932年2月5日
出身地 トリエステ
経歴 1974〜76 フォッジャ
1976〜77 テルナーナ
1978〜80 パルマ
1986〜96 U−21イタリア代表
1996〜98 イタリア代表
2001〜02 パラグアイ代表
獲得タイトル 92,94,96UEFAU−21欧州選手権
現役時代はDFとしてセリエAで活躍。ミランでは412試合に出場し、クラブ史上数少ない主将にも就任、62/63シーズンはMFリヴェラらと共にイタリアのクラブとして初めてチャンピオンズ杯を制し、リーグ優勝も4回達成するなど、パンディエラとして一時代を築きました。
代表では25試合プレーし、1962年W杯にも出場。1967年にトリノで現役を終えています。
08/09シーズンを最後に現役を引退したDFパオロ・マルディーニの父親で、1998年には同じチームで、2002年ではチームは違いましたが2大会連続で親子でW杯に出場しました。
伝統の「カテナチオ」を踏襲した守備重視のサッカーを展開します。
フォッジャからキャリアを始めますが、比較的短期間でプロビンチャを渡り歩きながら主に若手育成に注力していました。そして、1986年より代表に携わることになります。
ベアルツォット監督のアシスタントコーチとなり、1982年W杯で優勝、1986年大会も経験します。その後U−21監督に就任すると、10年間にわたって数多くの若手を発掘します。1990年のU−21欧州選手権はGKペルッツィ、DFコスタクルタ、FWシニョーリらを擁し準決勝にコマを進めますが、サヴィチェヴィッチ、ミヤトヴィッチ、ボバン、シュケルらがそろった分裂前の旧ユーゴに敗れました。しかし1992年大会では2大会連続出場となるFWカジラギを中心に据えて優勝を果たします。続く1994年大会ではGKトルド、DFカンナヴァーロ、パヌッチ、FWヴィエリ、インザーギなど攻守のバランスに優れ、準決勝でMFジダン擁するフランスを、決勝で「黄金世代」のポルトガルを破りました。1996年もDFネスタやMFトッティ、フィオーレ、帰化したカモラネージらを率いて3連覇の偉業を達成すると共に、多くの若手をフル代表に送り込み、強化に大きく貢献しました。
そして1998年W杯予選が始まりますが、その戦いぶりに非難が殺到し、サッキ監督がミランに就任するため、その後任として1996年12月にフル代表に就任します。いきなりイングランドとの大一番に臨みますが、1−0で勝利します。しかしポーランドやグルジアに引き分けたため思うように勝ち点を積み上げられず、プレーオフに回りました。1stレグのアウェーを引き分けた後、続くホームではカジラギのゴールにより勝利、辛くも本大会出場権を手にしました。
台頭したデル・ピエロをレギュラーに据え、エースだったR・バッジョを控えに回す起用法も大きな議論の的となりましたが、本大会では両者を召集します。しかしデル・ピエロは大会前のケガにより機能せず、R・バッジョが2ゴールを挙げる活躍を見せて復活をアピールします。しかし準々決勝でフランスにPKで敗れて辞任しました。その後は古巣ミランでスカウトを務めました。
2001年、既に翌年のW杯本大会を決めたパラグアイ代表に就任。世界有数のGKチラベル、リーベルで活躍するC・アジャラ、後にインテルでプレーするガマーラ、ボランチのパレデスなど優秀な守備陣に加え、新星サンタクルスなど好タレントを擁し、大会最高齢監督として本大会に臨みます。大黒柱のGKチラベルが初戦で出場停止だったため2点差を守れずドローに終わり、スペインには惨敗を喫しますが、スロヴェニア戦で勝利しグループリーグを突破します。決勝トーナメント初戦ドイツ戦では試合終了間際に決勝ゴールを許し、ベスト16に終わりました。
監督業を退いた後は解説者として活躍しています。
2009年06月17日
ボスニッチ

マーク・ボスニッチ
(Mark BOSNICH)
フルネーム マーク・ボスニッチ
国籍 オーストラリア
生年月日 1972年1月13日
出身地 シドニー
ポジション GK
身長/体重 188cm/86kg
個人タイトル 97オセアニア年間最優秀選手(IFFHS)
チームタイトル 89/90FAカップ
93/94,95/96イングランド・リーグカップ
99FIFAインターコンティネンタル・カップ
99/00FAプレミアシップ
所属クラブ 1989〜91 マンチェスター・U(イングランド)
1991〜99 アストン・ヴィラ(イングランド)
1999〜01 マンチェスター・U(イングランド)
2000〜03 チェルシー(イングランド)
2008〜09 C・マリナーズ
2009〜 シドニー・オリンピック
長身を生かしたハイボール処理と鋭い反応によるPKストップに定評があるGK。1997年にはオセアニア年間最優秀選手に選ばれています。
クロアチア人の移民の子としてシドニーに生まれます。地元にあるシドニー・クロアチアで猛練習に励むと、1988年にプロデビューを果たします。ここで5試合プレーした後マンチェスター・Uに引き抜かれ、1990年4月30日ウィンブルドン戦でトップリーグデビューを果たしました。
しかしシュマイケルの加入により出場機会が皆無となり、アストン・ヴィラへフリーで移籍します。ここで正GKに君臨します。93/94シーズンのリーグ杯準決勝トレンメア戦では相手のPKを3本も止めるなど素晴らしい活躍を見せ、タイトル獲得に多大な役割を果たしました。
95/96シーズンには自身最多の38試合に出場してチームをリーグ4位に導くと、リーグ杯でも決勝でリーズを破り2度目の栄冠を手にしました。
クラブとの契約が満了し、マンチェスター・Uに復帰します。インターコンティネンタル杯ではパルメイラスを破る原動力となり、リーグ2連覇にも貢献しました。しかし自身は安泰とは言えず、翌00/01シーズンにフランス代表バルテズが加入すると出場機会がなくなり、シーズン途中でチェルシーへ移籍します。ここではケガの影響でほとんどピッチに立てない状態が続き、02/03シーズンにはドーピング検査で陽性反応が示され、9か月の出場停止処分となり、クラブからも解雇されました。
その後、一時期ピッチから離れて選手の代理人を務めるなどしていましたが、2008年に母国で現役復帰を果たしています。
1992年バルセロナ五輪出場後、1994年W杯予選となる1993年5月30日ニュージーランド戦にて代表デビューします。1998年W杯予選でも正GKとなり、ソロモン諸島戦ではPKで得点を決めるなど活躍しますが、いずれも本大会出場はなりませんでした。
1997年コンフェデ杯では決勝に進出し、ブラジルと対戦しますが、ロマーリオ、ロナウドにゴールを決められ、準優勝に終わりました。
2009年06月06日
都築
都築 龍太
(Ryota TSUZUKI)
フルネーム 都築 龍太
国籍 日本
生年月日 1978年4月18日
出身地 奈良県生駒郡
ポジション GK
身長/体重 185cm/81kg
個人タイトル 07Jリーグベストイレブン
チームタイトル 03ナビスコカップ
05,06天皇杯
06Jリーグ
07AFCチャンピオンズ・リーグ
所属クラブ 1997〜02 G大阪
2003〜 浦和
至近距離からのシュートに対する素早い反応や正確なポジショニング、高精度のフィードキックで攻撃の起点となるなど攻守に活躍するGK。気性の激しさも特徴です。
友達の影響を受け、小学2年時にサッカーを始めます。身長が高かったこともあり当初からGKとしてプレーしていました。5年時に6年の大会に出場するなどレベルの高さを見せつけていましたが、その大会に敗れたことで勝利への欲求がわき、本格的に取り組むようになります。中学時代は3年時に全国大会へ出場し、2回戦でFW高原擁する東海一中に敗れました。
高校は長崎の国見へ進みます。強豪ゆえ試合に出られるようになったのが3年からでしたが、高校選手権に出場します。GK南やMF倉貫擁する静岡学園に敗れ、ベスト8に終わりました。
卒業後、多数のオファーの中から熱心に勧誘してきたG大阪に入団。2年目の1998年11月14日磐田戦でJリーグデビューするも、この試合のみでシーズンが終わりました。00シーズン途中、早野監督の下で正GK岡中からポジションを奪い、天皇杯でベスト4になりました。しかし02シーズンに就任した西野監督と起用法をめぐり対立し、構想外となりました。
出場機会を求め浦和へ移籍します。以降山岸範と激しいレギュラー争いを展開し、07シーズンはアジアを制覇、クラブW杯でもミランと肉薄するなどインパクトを残し、Jリーグベストイレブンに選出されました。08シーズン、開幕後の名古屋戦で自身のスローが相手に渡り、そのままゴールを許す信じがたいミスを犯しますが、その後もゴールマウスに立っており、不動の地位を固めつつあります。
2000年シドニー五輪では本大会登録メンバーに入りますが、オーバーエージでメンバーに入った楢崎の存在により出場機会はありませんでした。
フル代表デビューは2001年6月4日ブラジル戦。後に同僚になるワシントンを始め、M・アウヴェス、J・バティスタらを擁するチームを無得点に抑えました。4か月後のセネガル戦で2失点しW杯出場は叶いませんでしたが、その後もジーコ、岡田両監督に召集を受けており、Jリーグ屈指のGKであることは疑いのないところです。
(Ryota TSUZUKI)
フルネーム 都築 龍太
国籍 日本
生年月日 1978年4月18日
出身地 奈良県生駒郡
ポジション GK
身長/体重 185cm/81kg
個人タイトル 07Jリーグベストイレブン
チームタイトル 03ナビスコカップ
05,06天皇杯
06Jリーグ
07AFCチャンピオンズ・リーグ
所属クラブ 1997〜02 G大阪
2003〜 浦和
至近距離からのシュートに対する素早い反応や正確なポジショニング、高精度のフィードキックで攻撃の起点となるなど攻守に活躍するGK。気性の激しさも特徴です。
友達の影響を受け、小学2年時にサッカーを始めます。身長が高かったこともあり当初からGKとしてプレーしていました。5年時に6年の大会に出場するなどレベルの高さを見せつけていましたが、その大会に敗れたことで勝利への欲求がわき、本格的に取り組むようになります。中学時代は3年時に全国大会へ出場し、2回戦でFW高原擁する東海一中に敗れました。
高校は長崎の国見へ進みます。強豪ゆえ試合に出られるようになったのが3年からでしたが、高校選手権に出場します。GK南やMF倉貫擁する静岡学園に敗れ、ベスト8に終わりました。
卒業後、多数のオファーの中から熱心に勧誘してきたG大阪に入団。2年目の1998年11月14日磐田戦でJリーグデビューするも、この試合のみでシーズンが終わりました。00シーズン途中、早野監督の下で正GK岡中からポジションを奪い、天皇杯でベスト4になりました。しかし02シーズンに就任した西野監督と起用法をめぐり対立し、構想外となりました。
出場機会を求め浦和へ移籍します。以降山岸範と激しいレギュラー争いを展開し、07シーズンはアジアを制覇、クラブW杯でもミランと肉薄するなどインパクトを残し、Jリーグベストイレブンに選出されました。08シーズン、開幕後の名古屋戦で自身のスローが相手に渡り、そのままゴールを許す信じがたいミスを犯しますが、その後もゴールマウスに立っており、不動の地位を固めつつあります。
2000年シドニー五輪では本大会登録メンバーに入りますが、オーバーエージでメンバーに入った楢崎の存在により出場機会はありませんでした。
フル代表デビューは2001年6月4日ブラジル戦。後に同僚になるワシントンを始め、M・アウヴェス、J・バティスタらを擁するチームを無得点に抑えました。4か月後のセネガル戦で2失点しW杯出場は叶いませんでしたが、その後もジーコ、岡田両監督に召集を受けており、Jリーグ屈指のGKであることは疑いのないところです。
2009年06月01日
クバラ

ラズロ・クバラ
(Laszlo KUBALA)
フルネーム ラズロ・クバラ・シュテツ
国籍 ハンガリー
生年月日 1927年6月10日
出身地 ブダペスト
ポジション FW(CF)
身長/体重 176cm/82kg
個人タイトル
チームタイトル 50/51,51/52,52/53,56/57,58/59
コパ・デル・ヘネラリシモ
51/52,52/53,58/59,59/60
リーガ・エスパニョーラ
57/58,59/60UEFAフェアーズ・カップ
所属クラブ 1944〜44 G・トルナ
1945〜46 F・ヴァロシュ
1945〜47 S・ブラチスラヴァ(チェコ・S)
1948〜50 ヴァサス
1949〜50 P・パトリア(イタリア)
1950〜51 チネ・チッタ(イタリア)
1951〜63 バルセロナ(スペイン)
1962〜64 エスパニョール(スペイン)
1965〜67 チューリッヒ(スイス)
1967〜68 T・ファルコンズ(カナダ)
3か国でのプレー経験を持つハンガリー出身のインサイド・ライト。頑強な体格から強烈なシュートが繰り出され、完璧なテクニックや得点感覚も兼備、前線で絶大な存在感を発揮します。
英雄プスカシュと同様、1927年にハンガリーの首都ブダペストに生まれます。父親はレンガ職人、母親は工員として働いていました。地元のガンツ・トルナというクラブの下部組織に入り、11歳の頃にはすでに年上のチームでプレーする非凡な才能を見せつけていました。
1944年にプロデビューを果たすとすぐに強豪F・ヴァロシュに引き抜かれ、コチシュらと共にプレーします。その後S・ブラチスラヴァでも主力として活躍しました。
その後母国に戻りヴァサス、イタリアのクラブにも在籍しましたが大きな活躍には至りませんでした。しかし51/52シーズンにバルセロナへ入団、同胞ダウシク監督により前線の核として活躍、S・ヒホン戦で7得点、セルタ戦で5得点、セビージャやラシンからはハットトリックを記録するなど、国内リーグ19試合で27得点と大爆発し優勝に大きく貢献します。さらに決勝でバレンシアを破り国内カップを制し、チャンピオンズ杯の前身コパ・ラティーナでは準決勝でユヴェントスを4−2で下すと、決勝でもフランスのニースを下して優勝、ラテン杯や国内スーパー杯も制し、5冠を達成しました。自身を中心とした素早い華麗なパス回しで多くのファンを魅了し、「カンプ・ノウ」建設の契機となったのです。
その後コチシュやチボールといった「マジック・マジャール」のメンバーを説得して入団させ、若いL・スアレスやエヴァリストといった攻撃陣で他チームを圧倒、58/59シーズンに国内2冠を達成、フェアーズ杯(後のUEFA杯、現ヨーロッパ・リーグ)との連覇なども達成しました。
しかし「魔術師」エレーラ監督と衝突して出場機会が激減、自身の不在によりチャンピオンズ杯では準決勝で宿敵マドリーに大敗を喫しました。また、翌シーズンは同大会で決勝に進んだものの自身は出場することなく、チームもベンフィカに敗れました。バルセロナでは国内リーグで215試合に出場、138ゴールを挙げました。
その後近くにあるエスパニョールに入団、ここではPMになり、ディ・ステファノと共にチーム力を上げました。スイスやカナダを渡り歩いて現役を終えます。その後は監督としてバルセロナなどスペイン国内を中心に指導、1978年W杯や1992年のバルセロナ五輪では代表の指揮を執り、後者では見事金メダルを獲得。1995年にはパラグアイ代表監督も務めました。
2002年5月17日にバルセロナで74歳で死去しています。
1946年に父親が他界、これに伴い家族でチェコ・スロヴァキアへ移住し、10月27日アルバニア戦にて国際デビューを果たします。その後ハンガリーへ戻り、3試合プレーしました。
その後スペインへ亡命して同国籍を取得、デビューを果たし19試合で11得点。1957年トルコ戦ではハットトリックも記録するなど主力として活躍していたこともあり、「マジック・マジャール」と呼ばれた全盛期のハンガリー代表でプレーすることはありませんでした。
1962年W杯メンバーの有力候補でもありましたが、プレーすることなくキャリアを終えました。
余談
・一般的にはスペインでの「ラディスラオ」が使用されていますが、ここではハンガリー名の「ラズロ」を使用しております。また、チェコ・スロヴァキアでの名前は「ラディスラフ」です。
・1953年10月21日には、カタルーニャ選抜としてもプレーしています。
※チェコ・スロヴァキア、スペインの国籍もあり
代表記録 3試合0得点
チェコ・スロヴァキア代表デビュー:1946・10・27 アルバニア戦 代表記録:6試合4得点
スペイン代表デビュー:1953・7・5 アルゼンチン戦 代表記録:19試合11得点
2009年05月13日
スフォルツァ

チリアコ・スフォルツァ
(Ciriaco SFORZA)
フルネーム チリアコ・スフォルツァ
国籍 スイス
生年月日 1970年3月2日
出身地 アーラウ
ポジション DF(CB) MF(DMF OMF)
身長/体重 180cm/76kg
個人タイトル 93スイス年間最優秀選手
チームタイトル 87/88,88/89スイスカップ
90/91スイスリーグ
95/96UEFAカップ
97/98,00/01ブンデスリーガ
00/01UEFAチャンピオンズ・リーグ
所属クラブ 1986〜89 グラスホッパー
1989〜90 アーラウ
1990〜93 グラスホッパー
1993〜95 カイザースラウテルン(ドイツ)
1995〜96 バイエルン(ドイツ)
1996〜97 インテル(イタリア)
1997〜00 カイザースラウテルン(ドイツ)
2000〜02 バイエルン(ドイツ)
2002〜06 カイザースラウテルン(ドイツ)
広い視野からの正確なパスで、決定機を演出するスイス史上屈指のMF。プレー自体は派手さとは無縁ですが、その堅実な動きと高度な戦術眼により、CFからリベロまでこなします。
地元にあるヴォーレンというクラブでサッカーの技術を磨き、1986年、弱冠16歳で強豪グラスホッパーへ入団します。2年目にして主力となり、リーグ連覇に貢献、アーラウへのレンタル移籍を経て復帰した後もチームの中心選手として活躍しました。
93/94シーズンにカイザースラウテルンに移籍、DFブレーメやFWクンツと共にチームのリーグ上位躍進に貢献しました。これが認められてバイエルンへ引き抜かれ、ドリブラーのショルと共にトップ下として、同時加入のクリンスマンらFW陣を支援しますが、彼と主将マテウスの確執でチームの雰囲気は険悪になり、リーグ優勝を逃しますが、UEFA杯は制しました。
96/97シーズン、スイス代表で師事したホジソン監督率いるインテルへ移籍します。インスやジョルカエフらと共に中盤を形成、UEFA杯で再び決勝に進むもシャルケに敗れました。
97/98シーズンにカイザースラウテルンに復帰します。レーハーゲル監督の下、昇格した同チームはいきなりリーグ優勝を達成する快挙を成し遂げました。その後バイエルンに復帰、マテウスの後釜として背番号10を背負い、リベロとしても活躍しました。しかし左ヒザを負傷し、タイトル獲得にも不完全燃焼の感が否めませんでした。
02/03シーズン、三度カイザースラウテルンへ。4シーズン過ごしてチームの1部残留を見届けた後、現役を引退しました。その後は指導者として再スタートを切っています。
1991年8月21日チェコ・スロヴァキア戦で代表デビュー。1994年W杯予選を1位で通過、母国を28年ぶりに本大会へ導くと、4試合にプレーしてベスト16に進出します。
1996年欧州選手権ではグループリーグで敗退しています。その後も代表で活躍しましたが、ビッグトーナメント出場はなりませんでした。
代表記録 79試合7得点
2009年04月23日
ソンゴー

ジャック・ソンゴー
(Jacques SONGO'O)
フルネーム ジャック・セレスティン・ソンゴー
国籍 カメルーン
生年月日 1964年3月17日
出身地 サクバイェヌ
ポジション GK
身長/体重 182cm/80kg
個人タイトル 96/97サモラ賞
チームタイトル 87,88カメルーンリーグ
99/00リーガエスパニョーラ
02アフリカネーションズ・カップ
所属クラブ 1989〜92 トゥーロン(フランス)
1992〜93 ル・マン(フランス)
1993〜96 メッツ(フランス)
1996〜01 デポルティボ(スペイン)
2001〜03 メッツ(フランス)
2003〜04 デポルティボ(スペイン)
ヌコノ、ベルといった名GKを輩出するカメルーン。自身もその系譜に連なる選手であり、身長にこそ恵まれていませんが、強靭な肉体とバネを武器に鋭い反応やハイボール処理に定評があります。コーチングも的確で、守備陣はもちろんチームの精神的支柱になります。
首都にあるT・ヤウンデでプロのキャリアをスタートさせ、リーグ2連覇を達成。その後フランスに渡ります。ル・マンでの活躍が認められメッツにて正GKの座を確立させます。
96/97シーズンにデポルティボへ移籍。このシーズンのサモラ賞(リーガエスパニョーラで、シーズンの1試合あたりの失点率が最も低い選手に贈られる賞)に外国人として初めて選出される素晴らしい活躍を見せてリーグ3位に貢献。その後監督交代が相次ぎチームは低迷しましたが、在籍3年目に就任したイルレタ監督が就任するとチームは飛躍、ナイベト、ドナトとの両CBと共に堅牢な守備陣を構築し、99/00シーズンにクラブ初のリーグ優勝を達成、「スーペル・デポル」として一時代を築きました。その後モリーナの台頭により出番が減少し、古巣メッツに復帰します。ここで26試合に出場するも2部降格となりました。
03/04シーズン、再びデポルティボに移籍し、この年限りで現役生活を終えています。
1984年のロス五輪に出場した後、10月4日韓国戦で代表デビュー。1990年W杯では第3GKとしてメンバー入りを果たすと、1994年W杯では1試合に出場しました。
1998年W杯では正GKとして3試合プレーし、その後もコンフェデ杯や2002年W杯にも豊富な経験をもたらすべくメンバー入りしています。
代表記録 46試合0得点
2009年04月18日
曽ヶ端
曽ヶ端 準
(Hitoshi SOGAHATA)
フルネーム 曽ヶ端 準
国籍 日本
生年月日 1979年8月2日
出身地 茨城県鹿嶋市
ポジション GK
身長/体重 187cm/80kg
個人タイトル 01ナビスコカップニューヒーロー賞
02Jリーグベストイレブン
03Jリーグフェアプレー個人賞
チームタイトル 97/98,00/01,07/08天皇杯
98,00,01セカンドステージ
98,00,01,07,08Jリーグ
00,02ナビスコカップ
所属クラブ 1998〜 鹿島
キャッチング、セービング、ハイボールへの対応などの基本的なスキルはもちろん、恵まれた体格に加えシュートへのポジショニングと鋭い反応により守備範囲も広く、処理後の素早いフィードで攻撃の起点にもなるなど、頼れる鹿島生え抜きの守護神です。
茨城県鹿嶋市出身。小学1年で地元のチームに入り、サッカーを始めます。鹿島中では、3年の時にU−16へ招集され、アジアユースを戦いました。
鹿島高進学と同時に鹿島ユースへ入団。3年時には、トップチームのカンタレリーGKコーチに指導され、1998年、GK市川友以来クラブ2人目のトップチーム昇格を果たします。
当時は後にトルシエ監督の下で代表デビューを果たす高桑が正GKとして君臨しており、1年目のリーグ戦での出番はありませんでした。翌シーズンの5月に高桑が戦線を離脱、8日の福岡戦でJリーグデビューを飾りますが、彼の復帰後は再びバックアッパーとなり、翌00シーズンのJリーグ史上初の3冠にも貢献したとは言い難い結果となりました。
しかし01シーズン、高桑からポジションを奪いリーグ連覇に貢献、02シーズンはベストイレブンに選ばれるなどリーグ屈指のGKとしての地位を確立されました。このシーズン以降タイトルから遠ざかったものの、自身は06シーズンの開幕前にヒザの負傷で出遅れた以外は一貫してゴールを守り続けると、岩政、青木、内田篤など優秀な若手DFの加入もあり、07シーズンにリーグと天皇杯の2冠を達成、翌08シーズンにはリーグ連覇を果たすなど第二の黄金時代到来を感じさせる成績を残しています。
U−16から召集されますが、1999年Wユースでは南、榎本達のバックアップメンバーとしてナイジェリアに帯同するも出番はなく、2000年シドニー五輪も登録メンバーから外れました。
それでも2001年11月7日、イタリアとの親善試合で代表デビューします。トッティ、デル・ピエロ、インザーギがそろったチームを1点に抑えこみ、相手のトラパットーニ監督からも評価されました。W杯直前のスロヴァキア戦では完封勝利を挙げ、本大会メンバー入りも果たしました。
ジーコ体制になってからも2試合に出場し、2004年アテネ五輪ではオーバーエージ枠としてMF小野と共に招集されました。
2006年1月の合宿でヒザの筋肉が炎症、以降代表から遠ざかっています。
代表記録
(Hitoshi SOGAHATA)
フルネーム 曽ヶ端 準
国籍 日本
生年月日 1979年8月2日
出身地 茨城県鹿嶋市
ポジション GK
身長/体重 187cm/80kg
個人タイトル 01ナビスコカップニューヒーロー賞
02Jリーグベストイレブン
03Jリーグフェアプレー個人賞
チームタイトル 97/98,00/01,07/08天皇杯
98,00,01セカンドステージ
98,00,01,07,08Jリーグ
00,02ナビスコカップ
所属クラブ 1998〜 鹿島
キャッチング、セービング、ハイボールへの対応などの基本的なスキルはもちろん、恵まれた体格に加えシュートへのポジショニングと鋭い反応により守備範囲も広く、処理後の素早いフィードで攻撃の起点にもなるなど、頼れる鹿島生え抜きの守護神です。
茨城県鹿嶋市出身。小学1年で地元のチームに入り、サッカーを始めます。鹿島中では、3年の時にU−16へ招集され、アジアユースを戦いました。
鹿島高進学と同時に鹿島ユースへ入団。3年時には、トップチームのカンタレリーGKコーチに指導され、1998年、GK市川友以来クラブ2人目のトップチーム昇格を果たします。
当時は後にトルシエ監督の下で代表デビューを果たす高桑が正GKとして君臨しており、1年目のリーグ戦での出番はありませんでした。翌シーズンの5月に高桑が戦線を離脱、8日の福岡戦でJリーグデビューを飾りますが、彼の復帰後は再びバックアッパーとなり、翌00シーズンのJリーグ史上初の3冠にも貢献したとは言い難い結果となりました。
しかし01シーズン、高桑からポジションを奪いリーグ連覇に貢献、02シーズンはベストイレブンに選ばれるなどリーグ屈指のGKとしての地位を確立されました。このシーズン以降タイトルから遠ざかったものの、自身は06シーズンの開幕前にヒザの負傷で出遅れた以外は一貫してゴールを守り続けると、岩政、青木、内田篤など優秀な若手DFの加入もあり、07シーズンにリーグと天皇杯の2冠を達成、翌08シーズンにはリーグ連覇を果たすなど第二の黄金時代到来を感じさせる成績を残しています。
U−16から召集されますが、1999年Wユースでは南、榎本達のバックアップメンバーとしてナイジェリアに帯同するも出番はなく、2000年シドニー五輪も登録メンバーから外れました。
それでも2001年11月7日、イタリアとの親善試合で代表デビューします。トッティ、デル・ピエロ、インザーギがそろったチームを1点に抑えこみ、相手のトラパットーニ監督からも評価されました。W杯直前のスロヴァキア戦では完封勝利を挙げ、本大会メンバー入りも果たしました。
ジーコ体制になってからも2試合に出場し、2004年アテネ五輪ではオーバーエージ枠としてMF小野と共に招集されました。
2006年1月の合宿でヒザの筋肉が炎症、以降代表から遠ざかっています。
代表記録
2009年03月20日
ファン・ハール

ルイス・ファン・ハール
(Luis VAN GAAL)
フルネーム アロイシウス・パウルス・マリア・ファン・ハール
国籍 オランダ
出身地 アムステルダム
生年月日 1951年8月6日
経歴 1986〜87 2005〜 AZ
1987〜97 アヤックス
1997〜00 2002〜03 バルセロナ(スペイン)
2000〜01 オランダ代表
獲得タイトル 91/92UEFAカップ
92/93オランダカップ
93/94,94/95,95/96エールディヴィジ
94/95UEFAチャンピオンズ・リーグ
95FIFAインターコンティネンタル・カップ
97/98,98/99リーガエスパニョーラ
97/98コパ・デル・レイ
アヤックスのユースで育ち、選手時代は激しいボディコンタクトが持ち味のDFで、スパルタ、AZなどに在籍していましたが、トップチームでのプレー経験はありませんでした。
リーグ通算290試合26得点の成績を残し、引退しました。
選手をシステムに当てはめる戦術至上主義の代表的存在。試合中、メモ帳や選手のフォーメーションを示すボードを常に携えています。そのため選手器用を巡っての軋轢が絶えませんが、その実績は輝かしいものがあります。メディアへの自信に満ちた発言も印象的です。
フォーメーションはオランダ伝統の4−3−3はもちろん、フィールドを広く使い、選手同士がパス交換に困らない、俗にアヤックスシステムと呼ばれる3−4−3を採用します。素早いパス回しでのポゼッションやウインガー配置によるサイド攻撃を得意とします。また、若手育成にも定評があります。
現役引退後、AZのアシスタントコーチに就任し指導者としてのキャリアをスタートさせ、1988年1月にアヤックス入りし、ユース部門ディレクターやアシスタントコーチを歴任しました。その時にFWクライファート、オーフェルマルス、MFダーヴィッツ、セードルフらを育てました。
1991年9月、ベーンハッカー監督の後を継いで、トップチームの監督の座につきます。そして2シーズン続けてカップ戦のタイトルを獲得して頭角をあらわし、93/94シーズンからはリーグ3連覇を果たします。チャンピオンズ・リーグでは決勝でミランを破り、クライフ監督の72/73シーズン以来となるビッグイヤーを獲得。MFライカールトの現役引退に花を添えました。
1995年に来日。ブラジルのグレミオと対戦してPK戦の末勝利し、インターコンティネンタル杯も獲得しますが、国立競技場のピッチコンディションに苦言を呈する場面もありました。
97/98シーズンより、ボビー・ロブソンの辞任を受けてバルセロナに就任し、リーグ2連覇を達成して一応の結果を出しましたが、本来ゲームメーカーのリヴァウドをWGとして起用して軋轢を生んだほか、ライツィハー、デブール兄弟、コクー、ゼンデン、クライファートやリトマネンといったアヤックス時代の教え子を次々と引き抜いて自身の戦術を具現化できる選手ばかりを重用し、デ・ラ・ペーニャ、アモール、セラーデスなどカンテラ上がりの選手を冷遇したことにより、サポーターからはクライフ監督のような尊敬を得ることはできませんでした。
チャンピオンズ・リーグでも結果は残せず、98/99シーズンはグループリーグ敗退。99/00シーズンは準決勝でバレンシアに敗れました。
その後、自身にとって試練の時を迎えます。2000年にオランダ代表に就任。2年後のW杯を目指しますが、クラブと勝手が違う代表チームでは戦術を選手に会得させるのに苦労することになりました。また、局面を打開できるベルカンプの代表引退も響き、中盤以降を守備で固め、質量ともに世界屈指の陣容を誇る前線の個人能力に多くを委ねることとなりました。結局ポルトガルやアイルランドに1度も勝てず、16年ぶりの予選敗退の責任を取って辞任しました。
復帰したバルセロナでは、「本来獲得しなくてもいい選手」だったMFリケルメを冷遇。チームも一時は12位に沈むなど不振を極め、シーズン途中で解任されました。その後アヤックスのテクニカルディレクターに就きますが、監督のR・クーマンと対立しチームを追われました。
しかし約20年ぶりにAZに復帰すると再び実力を発揮します。アヤックスでのプレー経験があるFWアルヴェラーゼや、オランダ代表に招集されたMFランザート、DFマタイセンなど要所に実力者を揃えてフェイエノールトやアヤックスを抜いてリーグ2位の好成績を収めました。
ビッグネームがいないので選手との軋轢もなく、限られた戦力においてはフォーメーション変更など過去に比べると柔軟な対応を見せるようになります。08/09シーズンは28年前を上回る25試合無敗というクラブ記録を打ち立てています。
2009年03月18日
デ・ラ・ペーニャ

イバン・デ・ラ・ペーニャ
(Ivan DE LA PENA)
フルネーム イバン・デ・ラ・ペーニャ・ロペス
国籍 スペイン
生年月日 1976年5月6日
出身地 サンタンデール
ポジション MF(OMF)
身長/体重 169cm/70kg
個人タイトル 96,97リーガエスパニョーラ最優秀若手選手賞(エル・パイース紙)
チームタイトル 96/97,97/98,05/06コパ・デル・レイ
96/97,98/99UEFAカップウィナーズ・カップ
97/98リーガエスパニョーラ
所属クラブ 1993〜98 バルセロナ
1998〜99 ラツィオ(イタリア)
1999〜00 マルセイユ(フランス)
2000〜01 バルセロナ
2001〜02 ラツィオ(イタリア)
2002〜 エスパニョール
繊細なタッチのボールキープでタメを作り、味方FWの位置に合わせてピンポイントのクロスや針の穴を通すようなスルーパスを繰り出すスペイン屈指のファンタジスタ。守備面での貢献度は低く、調子のムラも大きい典型的な天才肌タイプです。
スキンヘッドと細身の体格であるため、「リトル・ブッダ」という愛称があります。
地元のラシン・サンタンデールユースでプレーしていたところを注目され、R・マドリーとバルセロナの争奪戦の末、後者の下部組織に入団します。辛口で有名なトップチームのクライフ監督にも絶賛される中、Bチームでじっくり経験を積んだ後、1995年9月3日バジャドリー戦でリーガデビューします。ロブソン新監督にレギュラーで起用され、このシーズンに加入したロナウドの得点王をおぜん立てしますが、惜しくも2位に終わります。その後ロナウドがインテルに移籍しますが、この際自身と共に移籍を希望する旨を述べたことは語り草となりました。
しかし翌シーズンから就任したファン・ハール監督には守備面での貢献が期待できないとして冷遇されます。とってかわったのが、運動量の多いR・エンリケであることからその理由は明白でした。その後ラツィオやマルセイユに移籍するも、ノーインパクトでそれぞれ退団しました。
02/03シーズンからエスパニョールへ。エースのタムードとのホットラインで輝きを取り戻し、04/05シーズンはリーグ5位になると、05/06シーズンは国内カップを制し、翌シーズンはUEFA杯で決勝に進出するなど、クラブを躍進させています。
1996年のU−21欧州選手権では、ラウールやメンディエタらと共に準優勝し、アトランタ五輪にも参加するなどユースレベルでは中心的存在でした。
2005年2月9日サンマリノ戦にて待望のフル代表デビュー。代表チームがトップ下を敷かないシステムであるため招集機会は少ないのが惜しまれるところです。
代表記録
情報提供 football island様 http://www.football-island.net/



