2009年11月10日

インス

インス
ポール・インス
(Paul INCE)

フルネーム  ポール・インス

国籍      イングランド

生年月日   1967年10月21日

出身地     イルフォード

ポジション   MF(DMF CMF)

身長/体重  179cm/77kg

個人タイトル

チームタイトル 89/90,93/94FAカップ
          90/91UEFAカップウィナーズ・カップ
          92/93,93/94FAプレミアシップ

所属クラブ   1986〜90 ウェストハム
          1989〜95 マンチェスター・U
          1995〜97 インテル(イタリア)
          1997〜99 リヴァプール
          1999〜02 ミドルスブラ
          2002〜06 ウォルバーハンプトン
          2006〜07 スウィンドン
          2006〜07 マックルスフィールド

高い身体能力とすさまじい運動量を武器に、執拗なマンマークと流血さえいとわない荒々しいボディコンタクトでボールを奪取、時折見せる強力なミドルでゴールを狙うこともあります。
力強いプレーと共に強烈なキャラクターとキャプテンシーの持ち主でもあり、「イングランドの心臓」と呼ばれるほど、中盤で絶大なる存在感を発揮します。

少年時代に応援していたウェストハムに練習生として入団し、86/87シーズンの9月30日ニューカッスル戦でトップリーグデビューを果たします。その後レギュラーとして中盤に君臨したもののチームが降格となったため、マンチェスター・Uに引き抜かれます。ブライアン・ロブソンと中盤でコンビを組み、90/91シーズンに決勝でバルセロナを下しカップウィナーズ杯を手にすると、92/93シーズンからのリーグ連覇にも貢献しました。
95/96シーズン、下部組織からのバットの台頭によりセリエAへ活躍の場を移します。サモラーノ、カヌ、ジョルカエフといった豪華な攻撃陣をスフォルツァ、ヴィンターらと共に支え、2年目にはUEFA杯で決勝にコマを進めますが、シャルケに敗れました。リーグでは及第点の結果を出しますが、人種差別問題にさらされたこともありイタリアでの生活は2年で終わりました。
リヴァプールではチームの中心となりましたが、99/00シーズンに就任したウリエ監督が若いジェラードを起用するため構想から外れ、ミドルスブラへ移籍します。かつての僚友ロブソン監督の下、ガスコインと中盤でコンビを形成。キャプテンとしてもチームをプレミア残留に導き、クラブとの契約が満了します。その後はウォルバーハンプトンのプレミア昇格に貢献しました。
一度は現役引退を考えていたものの、クラブからの要請を受けて現役続行を決意、チームは残念ながら降格したものの、その後2シーズンプレー、06/07シーズンを最後に引退しました。
その後は指導者となり、08/09シーズン、マンチェスター・Cへ移ったヒューズ監督の後任としてブラックバーンに就任。黒人として初めてイングランドのトップリーグで指揮を執ることになりましたが、成績不振によりシーズン途中で解任されています。

1992年9月9日スペイン戦で代表デビュー。翌年6月9日アメリカ戦ではプラットやアダムスの欠場により黒人初のイングランド代表キャプテンになるなど不動の地位を確立させます。
1996年欧州選手権で4試合に出場すると、1998年W杯予選では最終節で流血するもののピッチに立ち続け、治療後も止血できない中ユニフォームを赤く染めながらも終了までプレーする気迫を見せました。本大会でも全4試合に出場。アルゼンチン戦でのベッカム退場後の奮闘は、メディアから母国の名誉を守ったと報じられました。
2000年欧州選手権でも3試合プレーしています。
代表記録 53試合2得点

情報提供 football island様 http://www.football-island.net/

2009年11月09日

スクラヴィー

スクラヴィー
トマス・スクラヴィー
(Tomas SKUHRAVY)

フルネーム  トマス・スクラヴィー

国籍      チェコ

生年月日   1965年9月7日

出身地     チェスキー・ブロド

ポジション   FW(CF)

身長/体重  193cm/91kg

個人タイトル

チームタイトル 83/84,86/87,87/88,88/89,89/90
          チェコ・スロヴァキアリーグ
          83/84,87/88,88/89
          チェコ・スロヴァキアカップ

所属クラブ   1982〜84 スパルタ・プラハ
          1984〜86 RHチェブ
          1986〜90 スパルタ・プラハ
          1990〜96 ジェノア(イタリア)
          1996〜96 スポルティング(ポルトガル)
          1996〜97 Vシズコフ

190cmを超える大型FW。エリア内でのポストプレーや空中戦に絶対の自信を誇り、ポジション感覚にも優れています。また、毎年2ケタ以上のゴールが計算できる安定感も魅力です。

強豪スパルタ・Pでキャリアをスタートさせますが、当初は出場機会に恵まれませんでした。しかしRHチェブにレンタル移籍した後は徐々に持てる才能を発揮し、85/86シーズンに初の2ケタゴールを記録しました。86/87シーズンにスパルタに復帰してからはエースとして活躍し、国内リーグ4連覇などの原動力となりました。
90/91シーズンにイタリアの古豪ジェノアへ移籍します。ウルグアイ代表カルロス・アギレラと2トップを組み、ゴールランキング3位の15ゴールを挙げ、チームをリーグ4位に導きます。94/95シーズンにはセリエA初の日本人選手であるカズと2トップを組む機会もあり、12月4日サンプドリアとのジェノバダービーでは、ポストプレーからカズのアジア人によるセリエA初ゴールをアシストしました。
ジェノアに在籍中、セリエAでは57ゴールを挙げてクラブにその名を刻んだあと、スポルティング、V・シズコフと渡り歩き現役を引退しました。その後は解説者として活躍しています。

クラブでの活躍が認められ、20歳の誕生日を直前に控えた1985年9月4日にフル代表デビューします。そして1990年W杯に出場。決勝トーナメント一回戦のコスタリカ戦でハットトリックを挙げるなど5試合5ゴールとエースの役割を果たし、チームをベスト8に導きました。
1996年欧州選手権予選でもオランダ戦でゴールを挙げるなど首位での通過に貢献したものの、本大会のメンバーからは外れました。
代表記録 49試合17得点

2009年10月30日

デュガリー

デュガリー
クリストフ・デュガリー
(Christophe DUGARRY)

フルネーム  クリストフ・デュガリー

国籍      フランス

生年月日   1972年3月24日

出身地     ボルドー

ポジション   FW(LWG CF)

身長/体重  189cm/78kg

個人タイトル 

チームタイトル 98FIFAワールドカップ
          00UEFA欧州選手権
          01FIFAコンフェデレーションズ・カップ
          01/02フランスリーグ・カップ

所属クラブ   1988〜96 ボルドー
          1996〜97 ミラン(イタリア)
          1997〜98 バルセロナ(スペイン)
          1997〜00 マルセイユ
          1999〜03 ボルドー
          2002〜04 バーミンガム(イングランド)
          2004〜05 カタールSC(カタール)

長身ですがスピードとキープ力に優れ、攻撃にタメを作ることができ、ポストプレーも堅実であるため、CF、WGなど様々なポジションで高いレベルのプレーを見せます。気性が激しくカードをもらう場面も多かったものの、代表では大黒柱であるMFジダンとの連係が冴えを見せました。

13歳でボルドーのユースに入ると、17歳でプロデビュー。91/92シーズンに2部を制し1部昇格を果たします。以降ジダンやリザラズらと共に活躍し、95/96シーズンにはUEFA杯決勝に進出しますが、バイエルンに圧倒的な差を見せつけられました。
ですが移籍市場で注目を集め、ミランへの入団を果たします。しかし、ウェア、R・バッジョ、シモーネ、サヴィチェヴィッチなどワールドクラスがひしめいていたためレギュラー定着には至らず、1シーズンでイタリアを後にします。続くバルセロナでも自身のポジションにはリヴァウドやS・アンデルソンなどが存在していたため厳しい状況に変わりはなく、シーズン途中で母国のマルセイユへ移籍します。
ケガもあり常時フル出場とはいかなかったものの、98/99シーズンはイタリア代表ラヴァネッリと2トップを組んで活躍し、リーグ2位になりました。さらに翌シーズンのチャンピオンズ・リーグでも1次リーグ突破に貢献したものの、シーズン途中で古巣ボルドーへ復帰しました。
ボルドーではポルトガル代表パウレタと2トップを組みゴールをアシスト。タイトルには手が届きませんでしたが、チームは常に上位につけていました。しかし徐々に出場機会を減らしました。
02/03シーズン途中でバーミンガムへレンタル移籍します。16試合で5ゴールと結果を残し、チームをプレミア残留に導きました。
04/05シーズンにカタールへ渡り、現役生活にピリオドを打っています。

1994年5月26日オーストラリア戦で代表デビュー。1996年欧州選手権のメンバーに入ると、グループリーグ初戦のルーマニア戦でゴールを奪い、ベスト4に進出しました。
1998年W杯では初戦の南アフリカ戦でゴールを奪うもサウジアラビア戦で負傷し、大会のほとんどをベンチで過ごしました。それでも地元開催の大会を初優勝で飾りました。
2000年欧州選手権ではグループリーグ3戦目のオランダ戦で先制ゴールを挙げてチームを勝利に導き、W杯からの連覇という偉業達成に貢献しました。
2002年W杯予選は若手の台頭で出番が減ったものの、本大会では全試合に出場しました。
代表記録 55試合8得点

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2009年10月22日

ガンベリーニ

ガンベリーニ
アレッサンドロ・ガンベリーニ
(Alessandro GAMBERINI)

フルネーム  アレッサンドロ・ガンベリーニ

国籍      イタリア

生年月日   1981年8月27日

出身地     ボローニャ

ポジション   DF(CB)

身長/体重  185cm/78kg

個人タイトル

チームタイトル

所属クラブ   1999〜02 ボローニャ
          2002〜03 H・ヴェローナ
          2003〜05 ボローニャ
          2005〜   フィオレンティーナ

スピードと当たりの強さを生かした粘り強い守備を身上とするCBであり、代表ではF・カンナヴァーロの後継者として期待を集めています。

生まれ育った地元ボローニャの下部組織で技術を高め、2000年1月9日のアウェー、ラツィオ戦にてセリエAデビューを果たします。翌シーズンから10試合以上に出場しますが、バックアッパーの域を出ず、Bに降格したH・ヴェローナへレンタルに出されます。
ここでも20試合の出場に終わりましたが、ボローニャに呼び戻され、シニョーリ、クルス、ロカテッリ、中田英といった攻撃陣を背後から支えました。復帰2年目に30試合近く出場し、フィオレンティーナへ引き抜かれました。1年目こそ、主将ダイネッリなどの控えでしたが、2年目の06/07シーズンにレギュラーに定着、ウィファルシやGKフレイらとともに、インテルやローマなどといった上位陣をも凌駕する31というリーグ最少失点となり、3月4日トリノ戦ではセリエA初ゴールを含む2ゴールを挙げるなど、攻守両面において持て余していた才能を開花させました。
07/08シーズンは、国内リーグ4位とUEFA杯ベスト4という好成績を残し、双方の試合で合わせて40試合に出場、クラブの最優秀選手に選ばれました。

2004年のU−21欧州選手権を制するなどユース世代を経て、2007年10月17日南アフリカとの親善試合でフル代表デビューします。翌年の欧州選手権には主将カンナヴァーロの負傷離脱により追加招集されるも出番はありませんでした。
2009年コンフェデ杯ではレギュラーとなりますが、グループリーグ敗退となっています。
代表記録

2009年10月14日

石川直

石川直
石川 直宏
(Naohiro ISHIKAWA)

フルネーム  石川 直宏

国籍      日本

生年月日   1981年5月12日

出身地     神奈川県横須賀市

ポジション   MF(RMF)

身長/体重  175cm/68kg

個人タイトル  03Jリーグフェアプレー賞

チームタイトル 00ファーストステージ
          01ナビスコカップ

所属クラブ   2000〜02 横浜FM
          2002〜   FC東京

Jリーグには稀有な存在の純粋な右WG。スピードにのった切れ味鋭い縦へのドリブル突破、カットインからのミドル、高精度のクロスなどで局面を打開します。
丁寧なファンサービスを信条としており、クラブでトップクラスの人気を誇ります。

神奈川県横須賀市に生まれ、幼稚園時代からボールを蹴りはじめます。中学から日産ジュニアユース追浜(現横浜FMジュニアユース)に加入、そのままユースに昇格しました。ユースでは当初トップ下でプレーしていましたが、サイドにコンバートされました。高校3年時にトップへの昇格が決まったものの、ヒザの半月板を手術しました。
アルディレス監督から評価され、2000年4月1日鹿島戦でJリーグデビューを果たしますが、ヘルニアを発症して再び戦線離脱し、結局わずか2試合の出場にとどまります。
01シーズン、1stステージG大阪戦で初ゴールを挙げますが、チームは低迷しました。ラザロニ監督と相性が合わず、出場機会を求め02シーズンにFC東京へレンタル移籍します。
時を同じくしてFC東京に就任した原監督は、自身が出場したユース代表の試合で解説を務め、その才能を見出しており、即座に主力となります。そして同時に加入した右SB加地と共にサイド攻撃を活性化させ、原監督が標榜する攻撃的サッカーを体現する存在となります。03シーズンに完全移籍すると、自己最多の29試合に出場、フェアプレー個人賞を獲得しました。
04シーズンはリーグ戦こそ精彩を欠いたものの、オールスターに初出場し、ゴールを挙げてMVPに選ばれました。また、2度目のナビスコ杯を獲得しました。
05シーズン、8月にはイタリアのクラブからオファーを受けるも、チーム事情を考慮し日本に残ります。9月17日横浜FM戦で右ヒザ前十字じん帯と外側半月板損傷の重傷を負いました。
06シーズンの7月に復帰し、自己最多タイの5ゴールをマークします。09シーズンは自身初のハットトリックを記録するなど、MFながら得点王を争う自己最高のシーズンを送っています。

U−19から代表に招集され、アジアユースで準優勝になりました。続く2001年Wユースにはレギュラーとして全3試合に出場しますが、グループリーグ敗退となりました。U−21になると、プサンで開催された2002年アジア大会に出場し、準優勝に貢献しています。
2003年12月7日、東アジア選手権の香港戦でフル代表にデビューしましたが、アテネ五輪代表に合流して出場権を獲得します。しかし本大会では出番に恵まれず、最終戦のガーナ戦のみの出場におわり、試合終了後に悔し涙を流しました。
縦への突破力に乏しい代表において復帰が期待される選手の一人でしたが、09シーズンの活躍により、約5年半ぶりに代表復帰を果たしています。
代表記録

2009年09月27日

ドラソー

ドラソー
ヴィカシュ・ドラソー(Vikash DHORASOO)

フルネーム  ヴィカシュ・ドラソー

国籍      フランス

生年月日   1973年10月10日

出身地     アルフレール

ポジション   MF(DMF CMF)

身長/体重  168cm/63kg

個人タイトル

チームタイトル 00/01,01/02フランスリーグ・カップ
          02/03,03/04リーグアン
          05/06フランスカップ

所属クラブ   1993〜98 ル・アーブル
          1998〜01 リヨン
          2001〜02 ボルドー
          2002〜04 リヨン
          2004〜05 ミラン(イタリア)
          2005〜07 パリ・サンジェルマン
          2007〜08 リヴォルノ(イタリア)

高度な技術と運動量を併せ持ち、献身的な動きでチームを支えるMF。中央、サイドをそつなくこなし、どんなフォーメーションにも対応できる融通性があります。調子の波が激しく安定感に欠ける部分が欠点です。

モーリシャス人の両親のもと、フランス北西部のアルフレールに生まれます。ル・アーブルでキャリアをスタートさせ、1993年8月のサンテチェンヌ戦でプロデビューを果たしました。
2シーズン目よりレギュラーとして活躍し、98/99シーズンにリヨンへ引き抜かれます。そして、マルブランクと共に中盤から攻撃を組み立て、翌シーズンから加入したS・アンデルソンのゴールをおぜん立てしました。ボルドーのレンタル移籍を経て、02/03シーズンにクラブ初のリーグ優勝をもたらし、翌シーズンは連覇も達成。クラブの黄金時代の礎を築きました。
フランスでの活躍が認められ、04/05シーズンにミランへ加入。しかしレギュラー陣が固定されていたため出場機会を得ることができず、パリSGへ移籍します。
そしてパウレタとB・カルーの後方でゲームメーカーとしてフル稼働、ゴールこそなかったもののリーグ戦では34試合に出場しました。フランス杯決勝マルセイユ戦でゴールを挙げて2年ぶりのタイトル獲得に貢献、UEFA杯出場権を手中にしました。
06/07シーズンは監督との折り合いが悪くシーズン途中に契約解除され、無所属の状態が続きましたが、07/08シーズンにリヴォルノからのオファーを受け、2度目のセリエAに臨みます。ですが、ケガの影響もあり1試合もプレーできず退団、そのまま現役を引退しています。

1996年のアトランタ五輪出場を経て、1999年3月27日、欧州選手権予選のウクライナ戦でフル代表デビュー。2002年W杯、2004年欧州選手権の出場はなりませんでした。
2006年W杯予選ではドメネク監督に招集され5年ぶりの代表復帰を果たし7試合1得点を記録すると、本大会でも2試合ピッチに立っています。
代表記録 18試合1得点

2009年09月23日

マイコン

マイコン
マイコン(MAICON)

フルネーム  マイコン・ダグラス・シセナンド

国籍      ブラジル

生年月日   1981年7月6日

出身地     クリシウマ

ポジション   DF(RSB)

身長/体重  184cm/77kg

個人タイトル

チームタイトル 03ブラジル全国選手権
          03ブラジルカップ
          04,07コパ・アメリカ
          05,09FIFAコンフェデレーションズ・カップ
          06/07,07/08,08/09セリエA

所属クラブ   2000〜00 クリシウマ
          2001〜04 クルゼイロ
          2004〜06 モナコ(フランス)
          2006〜   インテル(イタリア)

体格に恵まれ、中に切れ込む迫力あるドリブルで一気に相手エリア内に攻め込みます。またクロス精度も高く、得点力も兼ね備えた超攻撃的右SBです。

クリシウマ生まれ。00シーズンに地元クラブでトップチームに上がりましたが、すぐにクルゼイロへ加入します。ここで18試合に出場して以降、コンスタントにプレーする機会を獲得します。また、2003年には国内2冠を達成しました。
04/05シーズンにモナコに入団、開幕のサンテティエンヌ戦で欧州リーグデビューを果たします。そして不動のレギュラーとして31試合4得点の好成績を残してリーグ3位になると、チャンピオンズ・リーグでも7試合に出場。アウェーのデポルティボ戦では初得点も挙げ、グループリーグ突破を果たしました。フランス代表左SBエヴラとのサイドアタック攻撃は欧州でも注目を集め、インテルと5年契約を結びました。ポジションが重なるクラブの重鎮サネッティから定位置を確保します。06/07シーズンはチャンピオンズ・リーグで8試合に出場、決勝トーナメント、バレンシア戦で得点を挙げましたが、アウェーゴールの差で敗れます。この試合では相手DFとの乱闘事件に関与したとして、その後の試合出場を禁止されました。また、コッパ・イタリアでも決勝でローマに敗れました。
しかし、自身の加入以降スクデットを獲り続けており、国内リーグでは強さを見せています。

2001年Wユースでベスト8に進出した後、2年後の7月13日メキシコ戦でフル代表デビューを果たします。翌年のコパ・アメリカでは主力として優勝に貢献、コンフェデでも2試合に出場し、優勝を果たしました。それでもカフー、シシーニョの前にW杯出場を逃しました。
しかし監督がドゥンガになると招集を受け、D・アウヴェスと共にハイレベルなポジション争いを展開しながら、2つの国際タイトルを獲得。特に2009年コンフェデ杯では1得点を挙げ、大会のベストイレブンにも選出されています。
代表記録

2009年09月20日

古賀正

古賀 正紘(Masahiro KOGA)

フルネーム  古賀 正紘

国籍      日本

生年月日   1978年9月8日

出身地     福岡県大川市

ポジション   DF(CB)

身長/体重  185cm/79kg

個人タイトル

チームタイトル 99/00天皇杯

所属クラブ   1997〜06 名古屋
          2007〜   柏

恵まれたフィジカルを擁し1対1の強さを誇るストッパーですが、インターセプトやカバーリングといった判断力の良さにも定評があります。
また、もともとFWだったため得点センスにも秀でており、セットプレーでは得点源となります。

サッカーの盛んな大川市に生まれ、小学3年時から本格的に取り組むと、ジュニアユースの候補にも選ばれます。当時はストライカーとしてプレーしていました。
大川中では3年時に九州選抜に選ばれ、また、U−16代表にも召集されるなど注目を集めます。卒業時にはFW小島宏や志波監督の誘いにより、東福岡高への進学を選びました。強豪チームであり、小島のほかに山下芳輝が在籍していたため出場機会は皆無に等しく、U−16代表の合宿時に監督からSBへ転向、2年時にはU−17への参加時にCBへコンバートされます。これがきっかけでDFとしての才能が開花したのです。高校選手権は1年時こそ出番がなかったものの、コンバート後の2年時にはDFとしてベスト4進出に貢献しました。
卒業時、16ものクラブからオファーを受け名古屋に入団、1997年4月12日C大阪戦との開幕戦でJリーグデビューを果たします。当初はプロの水に慣れるまで時間がかかり、トーレスと大岩というリーグ屈指のCBコンビの存在などでベンチを温める時間が多かったものの、02シーズン頃から先発メンバーに定着するようになりました。
07シーズン、10年間過ごした名古屋を離れて柏に移籍。若手がそろうチームに豊富な経験を持ち込み、すぐに不可欠な存在となっています。
U−16を皮切りにユース世代では各年代の代表に選出され、U−17世界選手権では小野や稲本、高原など一つ下の世代の選手からも刺激を受けました。
1996年アジアユースでは不動のCBとして1997年Wユース出場権獲得に貢献したものの、本大会では出場機会はありませんでした。その後アジア大会では3試合に出場するも、2000年シドニー五輪のメンバーには選ばれませんでした。

・余談
福岡や神戸などでプレーするMF古賀誠史は実弟です。
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2009年08月24日

バケーロ

ホセ・マリア・バケーロ(Jose Maria BAKERO)

フルネーム  ホセ・マリア・バケーロ・エスクデロ

国籍      スペイン

生年月日   1963年2月11日

出身地     ゴイステア

ポジション   MF(OMF)

身長/体重  172cm/71kg

個人タイトル

チームタイトル 80/81,81/82,90/91,91/92,
          92/93,93/94リーガ・エスパニョーラ
          86/87,89/90コパ・デル・レイ
          88/89,96/97UEFAカップウィナーズ・カップ
          91/92UEFAチャンピオンズ・カップ

所属クラブ   1980〜88 R・ソシエダ
          1988〜97 バルセロナ
          1996〜97 ベラクルス(メキシコ)

目まぐるしく変わるピッチを、高度な戦術眼と的確な判断力で把握、巧みなポジショニングとダイレクトパスで攻守にわたり効果的なプレーを見せるMF。元来FWだけに強烈なヘディングや右足シュートなど攻撃センスにも長け、さらに統率力も備えるなど、多くの特長があります。

R・ソシエダにてキャリアを始め、1980年9月6日バレンシア戦、弱冠17歳の時にプロデビュー。初年度は27試合に出場しますがノーゴールに終わり、翌年はケガで2試合の出場にとどまります。プロ3年目で33試合で4ゴールと手ごたえをつかむと、4年目には初の2ケタゴールをマークしました。以降チームの得点源として長くバスク地方で活躍、この活躍が認められ、べギリスタインと共にバルセロナへ引き抜かれます。
それまでFWとしてプレーしていましたが、クライフ監督により中盤へコンバートされます。そして、タイミングの良い飛び出しなどにより、ストイチコフやM・ラウドルップ、べギリスタインの3トップと、中盤の司令塔グァルディオラの橋渡し役として機能、またキャプテンも務めるなど「ドリームチーム」の精神的支柱として、クラブ黄金期になくてはならない存在となりました。特に91/92シーズンのチャンピオンズ杯2回戦カイザースラウテルン戦では貴重なアウェーゴールを決め、チーム初のビッグイヤー獲得への道程を作りました。94/95シーズンの同大会でも敗れはしましたが、準々決勝PSG戦でゴールを挙げるなど、勝負強さを見せました。
95/96シーズン途中でクライフ監督が退任、チームも3位でシーズンを終えると、翌シーズンの1996年11月18日バジャドリー戦、この試合でゴールを決めてバルセロナでの生活を有終の美で飾りベラクルスへ移籍、17試合に出場して現役生活を終えました。
引退後は指導者に転身しています。

翌年の欧州選手権予選となる1987年10月14日オーストリア戦で代表デビューを果たし、本大会でも3試合プレーしましたが、グループリーグ敗退に終わります。
1990年W杯ではサブでしたが、1994年W杯では背番号10を身にまとい4試合プレー、ベスト8に進出しています。
代表記録 30試合7得点

2009年08月02日

ボビー・ロブソン

ボビー・ロブソン
“サー”ボビー・ロブソン
(“Sir”Bobby ROBSON)

フルネーム ロバート・ウィリアム・ロブソン

国籍    イングランド

出身地   サクリストン

生年月日  1933年2月18日

経歴      1968〜68 フルハム
         1969〜82 イプスウィッチ
         1982〜90 イングランド代表
         1990〜92 1998〜99 PSV(オランダ)
         1992〜94 スポルティング(ポルトガル)
         1994〜96 ポルト(ポルトガル)
         1996〜97 バルセロナ(スペイン)
         1999〜04 ニューカッスル

獲得タイトル 77/78FAカップ
         80/81UEFAカップ
         90/91,91/92エールディヴィジ
         93/94ポルトガルカップ
         94/95,95/96ポルトガルリーグ
         96/97コパ・デル・レイ
         96/97UEFAカップウィナーズ・カップ

サクリストンに5人兄弟の4番目として生まれます。少年時代はニューカッスルのサポーターとして、セントジェームズパークに足しげく通っていました。
15歳のころには18歳のチームに所属するなど才能を発揮、これに目を付けたフルハムに入団してプロキャリアをスタートさせます。主に前線の選手として6年間活躍し、その後のWBAでの6年間を経てフルハムに復帰しました。晩年にはカナダのバンクーバーに渡りました。
イングランド代表としても1958年W杯に出場するなど、20試合4得点の成績を残しました。

国内外で多くの成果を残しているイングランドを代表する名将。フォーメーションは伝統の4−4−2フラットですが攻撃志向が強く、サイドだけでなく中央のMFも攻撃的な選手を配置します。
性格は温厚で人格者としても広く知られ、イングランド代表のガスコイン、PSVのロマーリオ、バルセロナのロナウドに代表される問題児をも巧みに手なずける人心掌握術も擁し、多くの選手に慕われるのはもちろん、メディアやサポーターとの関係も良好です。
2002年11月には、ナイトの称号である“サー”を授与されています。

現役最終年の1967年、バンクーバーで選手兼監督となります。その後母国へ帰還し古巣フルハムで監督生活を始めますがチームが降格し、引責辞任します。その後イプスウィッチに就任、これまでタイトルに恵まれなかったクラブに、77/78シーズンには決勝でアーセナルを下してFA杯を、80/81シーズンには決勝でAZを下してUEFA杯獲得と成果を出しました。
これにより1982年にイングランド代表監督に指名されます。1986年W杯ではGKシルトン、MFホドル、ブライアン・ロブソン、ワドル、FWリネカーとタレントがそろいますが、グループリーグ2戦を終えて勝ち点1と苦しい展開となり、3戦目に若手に切り替えます。これが奏功し、リネカーがハットトリックを決めてポーランドを下し、決勝トーナメントに進出します。しかしマラドーナの神業に屈し、ベスト8で敗退しました。1988年欧州選手権ではW杯時のチームとほぼ変わらない顔ぶれでしたが、リネカーやベアズリー、バーンズといった攻撃陣が不発に終わり、全敗でグループリーグ敗退となりました。
1990年W杯では3−4−3の布陣で臨みます。大会が全体的に守備的であり、自チームも2得点しか挙げずにグループリーグ突破を決めます。決勝トーナメントに入りベルギーに1−0、続くカメルーンには3−2の撃ち合いを制しました。準決勝西ドイツ戦ではガスコインが退場するなど苦しい展開となり、PK戦にもつれた末敗北、3位決定戦イタリア戦でも敗れ4位に終わりました。通算では95試合戦い47勝と、好成績を残しました。
そして再びクラブシーンへ。まずオランダへ渡りPSVに就任。そしていきなりリーグ2連覇を果たします。しかしチャンピオンズ杯ではグループリーグに進めなかったため解任されます。
その後ポルトガルにわたります。スポルティングでは初年度こそリーグ3位となったものの、翌シーズンにUEFA杯3回戦を敗退し、解任されました。しかしすぐに宿敵ポルトからのオファーを承諾すると、このシーズンの国内カップを獲得、翌シーズン以降リーグ2連覇を果たしました。
ちなみにスポルティング時代から自身の通訳を務めるようになったジョゼ・モウリーニョに多大な影響を与えることとなり、これがバルセロナ監督時代まで続きます。自身の影響を受けた彼は、その後ポルトでチャンピオンズ・リーグ制覇、チェルシーでリーグ2連覇と大きな成果を残して世界屈指の監督の一人となりますが、自身のアドバイスには忠実に耳を傾けるようです。
96/97シーズンにバルセロナに就任。デ・ラ・ペーニャのスルーパスにロナウドがゴールを量産、国内リーグ得点王になった彼に対し「戦術はロナウド」という最大限のほめ言葉を与え、のちにサッカー史に残る名言ともなりました。しかし彼とジェオヴァンニがリオのカーニバルで帰国するなどチーム内を掌握し切れず、宿敵R・マドリーに覇権を握られてしまいました。それでも国内カップ、カップウィナーズ杯の2冠を達成し、面目を保ちました。
98/99シーズンにPSVに復帰、ファン・ニステルローイとニリスの2トップが52ゴールをたたきだしましたが、守備が崩壊して3位に終わりました。
そして、子供のころの憧れだったニューカッスルに就任します。エースのシアラーをはじめ、GKギヴン、MFスピード、ロベール、ソラーノ、FWベラミなど好選手を擁し、01/02シーズンにはチームをリーグ4位に導きチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得すると、翌シーズンの同大会、D・キエフ、フェイエノールトを交わして1次リーグを突破、2次リーグでバルセロナとインテルに道を閉ざされましたが、前回のファイナリストであるレヴァークーゼンに連勝するなど健闘しました。そして、この過酷な日程ながら国内リーグで3位と好成績を挙げました。
翌シーズンのチャンピオンズ・リーグでは予備予選3回戦でパルチザンに敗れ、グループリーグ進出はならず、リーグもUEFA杯出場権を手にするのが精いっぱいとなりました。
1991年からガンを患っていたこともあり、この03/04シーズンをもって監督業から引退、その後2006年からアイルランド代表の顧問として、ストーントン監督へアドバイスを行いました。
2009年7月31日、76歳で亡くなっています。
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