2008年07月07日

トゥララン

トゥララン
ジェレミー・トゥララン
(Jeremy TOULALAN)

フルネーム  ジェレミー・トゥララン

国籍      フランス

生年月日   1983年9月10日

出身地     ナント

ポジション   MF(DMF)

身長/体重  183cm/77kg

個人タイトル  05フランス年間最優秀若手選手

チームタイトル 06/07,07/08リーグアン
          07/08フランスカップ

所属クラブ   2001〜06 ナント
          2006〜   リヨン

無尽蔵のスタミナと卓越した戦術眼、強烈なタックル、ボール奪取能力を誇り、前線へのパスもミスが少ないなど攻守に活躍できるボランチ。展開力に課題を残します。

デシャン、デサイー、マケレレ、カランブーなど数多くの名手を輩出したナントのユース出身。2002年3月23日のレンヌ戦でリーグアンにデビュー。2次グループリーグに進んだチャンピオンズリーグでも19日の最終節、アウェーバイエルン戦に出場し欧州デビューを果たします。
翌シーズンから徐々に出場機会を増やすと、04/05シーズンには31試合に出場し、プロ初ゴールも記録。リーグの最優秀年間若手選手にも選出されました。
06/07シーズンからリヨンと4年契約を結ぶと、R・マドリーへ去ったM・ディアッラの穴を埋めるべくジュニーニョ、シェルストレームとの3センターを機能させ、リーグ7連覇に貢献。チャンピオンズリーグでも7試合に出場するなど、もはや欠かせない存在となっています。

2006年3月のスロヴァキア戦でフル代表に初招集されますが出番はなく、その後のU−21欧州選手権ではセルビア・M(現セルビア)戦でゴールを挙げマン・オブ・ザ・マッチに選ばれるなど、準決勝進出に貢献します。同年10月11日フェロー諸島戦でフル代表デビューし、2008年欧州選手権予選はこの試合を含め7試合に出場します。
本大会メンバーにも選出され、コンディション不足のヴィエラに代わり、全3試合出場しました。

2008年06月04日

ナダル

ナダル
ミゲル・アンヘル・ナダル
(Miguel Angel NADAL)

フルネーム  ミゲル・アンヘル・ナダル・オマン

国籍      スペイン

生年月日   1966年7月28日

出身地     マナコール

ポジション   DF(CB)

身長/体重  188cm/81kg

個人タイトル

チームタイトル 91/92,92/93,93/94,97/98,
          98/99リーガエスパニョーラ
          91/92UEFAチャンピオンズカップ
          96/97,97/98,02/03コパ・デル・レイ
          96/97UEFAカップウィナーズ・カップ

所属クラブ   1986〜91 マジョルカ
          1991〜99 バルセロナ
          1999〜05 マジョルカ

長身で屈強な身体を誇り、対人や空中戦に強さを発揮する典型的なストッパー。ボランチとしてもプレーできます。ただ、スピードに難があります。プロテニスプレーヤーのラファエル・ナダルは甥にあたります。

O・マナコールというクラブでプレーした後、地元の名門マジョルカへの入団し、1987年4月19日バルセロナ戦でリーガデビューを果たします。
翌シーズンより出場機会が増えますが2部降格の憂き目にあいます。しかし1年での復帰に成功すると、その後もDF陣の中心として活躍。また、セットプレーからも強烈なヘディングを見せてゴールを量産しました。
攻守両面にチームに貢献していた自身にクライフ監督率いるバルセロナよりオファーが届き、91/92シーズンに加入します。クーマンやフェレールなどとDFラインを形成、ロマーリオやストイチコフなどワールドクラスが居並ぶ「ドリームチーム」の豪華な攻撃陣を後方から支え、移籍初年度より、リーグとチャンピオンズ杯の頂点に立ちました。
以降もリーグ2連覇や国内カップ2回に加え、96/97シーズンにはパリSGを破り、カップウィナーズ杯も初制覇するなど、クラブの黄金期に名を連ねました。
97/98シーズンよりファン・ハール監督が就任し出場機会が激減したことにより、古巣マジョルカへ復帰すると豊富な経験でチームをけん引します。02/03シーズンは自身3度目の国内カップを獲得しました。04/05シーズン途中に現役を退いています。

1991年11月13日チェコ・スロヴァキア戦で代表デビューを飾り、定着します。絶対的なレギュラーというわけではありませんでしたが、1994年W杯以降3度のW杯に出場。2002年大会では35歳ながら全4試合に出場しました。
欧州選手権は1996年大会に2試合出場しています。
代表記録 63試合3得点

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2008年06月03日

レオニダス

レオニダス
レオニダス(LEONIDAS)

フルネーム  レオニダス・ダ・シルヴァ

国籍      ブラジル

生年月日   1913年9月16日

出身地     サン・クリストヴァン

ポジション   FW(CF)

身長/体重  175cm/75kg

個人タイトル  38FIFAワールドカップ得点王(7得点)
          38,40リオデジャネイロ州選手権得点王

チームタイトル 34,35,39リオデジャネイロ州選手権
          43,45,46,48,49サンパウロ州選手権

所属クラブ   1926〜28 サン・クリストヴァン
          1929〜30 シリオ・リバネス
          1931〜32 ボンスセッソ
          1933〜33 ペニャロール(ウルグアイ)
          1934〜34 ヴァスコ・ダ・ガマ
          1935〜35 ボタフォゴ
          1936〜41 フラメンゴ
          1942〜49 サンパウロ

俊敏な動きとテクニックで瞬く間にゴール前まで攻め上がり、抜群の身体能力により空中戦も強く、時折見せるバイシクルシュートで観客を沸かせます。愛称は「黒いダイヤモンド」。

リオデジャネイロ州に生まれ、故郷のサン・クリストヴァンでキャリアをスタートさせます。序盤はヴァスコ・ダ・ガマ、ボタフォゴなどの名門でさえ2シーズンと在籍しませんでしたが、1936年に同州のフラメンゴに加入したのが、大きな転機となります。
クラブ史上最初の黒人選手として、いろいろな意味でプレッシャーのかかるシーズンでしたが、意に介することなく驚異の得点率を誇り、38と40シーズンにはリオ州選手権で得点王に輝き、また、チームも3度の選手権制覇に導く活躍を見せたことから、自身の名が付いた商品が発売されるほどのスタープレーヤーとなりました。
1942年にサンパウロへ移籍。8シーズンプレーし、49シーズンのリーグ優勝を花道に36歳で現役生活に終止符を打ちました。
フリーデンライヒに続く黒人選手として、人種差別にもめげず、また、自分の出自を恥じることなく常に堂々とプレーしたことが、長期間素晴らしい活躍をすることができた原動力であることは言うまでもありません。
引退後も監督や解説者としてサッカーに携わり、2004年1月24日に死去しています。

1932年12月4日ウルグアイ戦にて黒人選手として初のデビューをするだけでなく、いきなり2ゴールを決めて結果を出すと、以降エースの座を確立させました。
1934年W杯はスペインに敗れ早期敗退となりますが、続く1938年W杯では、悪天候の中で行われた1回戦ポーランド戦でハットトリックを決めて6−5の壮絶な打ち合いを制すると、再試合になるチェコスロヴァキア戦でも2試合連続ゴールを挙げます。準決勝では出場しませんでしたが、敗れた後の3位決定戦で2ゴールを挙げ、通算7ゴールで得点王になりました。
代表記録 37試合37得点

2008年06月02日

名良橋

名良橋 晃(Akira NARAHASHI)

フルネーム  名良橋 晃

国籍      日本

生年月日   1971年11月26日

出身地     千葉県千葉市

ポジション   DF(RSB)

身長/体重  170cm/67kg

個人タイトル  01Jリーグベストイレブン

チームタイトル 95/96アジア・カップウィナーズカップ
          97ファーストステージ
          97,00,02ナビスコカップ
          94,97/98,00/01天皇杯
          98,00,01セカンドステージ
          98,00,01年間優勝

所属クラブ   1992〜93 フジタ
          1993〜96 平塚
          1997〜06 鹿島
          2007〜07 湘南

豊富な運動量で右サイドを献身的に上下動し、スピードに乗ったオーバーラップやペナルティエリアへ侵入してゴールを狙う攻撃性の強い右SBです。守備では激しいスライディングタックルを仕掛けるアグレッシブなプレーを見せます。小柄ですが、がっしりした体躯の持ち主です。

千葉市に生まれます。それまで野球をしていましたが、マラドーナへのあこがれで小学2年に地元のサッカークラブに入り、4年時には千葉北FCという市内の選抜チームに入りました。当初はFWとしてプレーしていました。地元中学を経て千葉英和高に進学するも当時の千葉県は市立船橋と習志野の2強時代だったので、高校選手権には出場することができませんでした。とはいえ3年時には国体選抜入りのテストとなる順天堂大との練習試合で2ゴールを挙げ、メンバー入りを果たしました。
高校卒業後、フジタ(後の平塚、現湘南)に練習生として参加、入団テストとなったトップチームでの日産(現横浜FM)との練習試合で1ゴールを決めます。この実力が認められて正式に入社します。
時には左SBとしても起用されますが及第点のプレーを見せ、1992年にプロ契約を結ぶと、このシーズンのJFLでアシスト王になりました。
2年後にJリーグに昇格すると、1994年3月12日V川崎(現東京V)との開幕戦にJリーグデビューをスタメンで果たしました。1stステージは低迷しましたが、2ndステージでは左SBの岩本と共に攻撃的SBとして脚光を浴び、2位になる大躍進を果たしました。天皇杯でもその快進撃は続き、フジタ時代以来15年ぶりの優勝に貢献しました。
97シーズンより鹿島でプレー。かねてから自身が尊敬していたブラジル代表ジョルジーニョが在籍していたことが移籍する決め手となりました。ボランチへポジションをうつしたジョルジーニョと共にプレーすることによって技術はもちろん、勝利への執念などメンタル的な部分でも強い影響を受けて成長しました。そしてナビスコ杯と天皇杯の2冠獲得を皮切りに翌シーズンはキャリア最多の5ゴールを挙げてリーグ優勝に貢献するなど、常勝クラブの一員となりました。しかし04シーズンから度重なるケガに悩まされ、06シーズンは内田篤の台頭により出番を失いました。これに伴い07シーズンより古巣湘南に復帰しましたが、7月に契約が切れたため退団、そのまま現役を退いています。
J1リーグ:310試合23得点 J2リーグ:1試合0得点

高校3年次にユース代表に選出されると、永井良和監督の提言によりSBにコンバートされ、帯同していたクラマーコーチから10日間指導を受けてDFとしての新しいスタートを切りました。
バルセロナ五輪予選ではMFとして澤登、名波、藤田、相馬直らと共にプレーしましたが、残念ながら予選敗退となりました。
ドーハの悲劇から約1年後の1994年9月27日、オーストラリア戦でフル代表デビュー。柳本や中村忠、若い市川らとのポジション争いは熾烈を極めましたが、3バック、4バックの両方に対応できるため加茂、岡田両監督に重用され、1998年W杯予選終盤や本大会はレギュラーとしてプレーしました。
その後ジーコジャパンで久々に代表復帰しましたが、2003年6月8日アルゼンチン戦で大敗を喫した後世代交代の波を受け、代表を退いています。
代表記録 38試合0得点

2008年05月31日

ハートソン

ハートソン
ジョン・ハートソン
(John HARTSON)

フルネーム  ジョン・ハートソン

国籍      ウェールズ

生年月日   1975年4月5日

出身地     スウォンジー

ポジション   FW(CF)

身長/体重  185cm/92kg

個人タイトル  98,01,04ウェールズ年間最優秀選手
          04/05スコティッシュプレミアリーグ得点王
          04/05スコティッシュプレミアリーグ年間最優秀選手

チームタイトル 01/02,03/04,05/06
          スコティッシュプレミアリーグ
          03/04,04/05スコティッシュカップ

所属クラブ   1992〜95 ルートン(イングランド)
          1995〜97 アーセナル(イングランド)
          1997〜99 ウェストハム(イングランド)
          1999〜01 ウィンブルドン(イングランド)
          2000〜01 コヴェントリー(イングランド)
          2001〜06 セルティック(スコットランド)
          2006〜08 WBA(イングランド)
          2007〜08 ノーウィッチ・シティ(イングランド)

がっちりした体格でフィジカルに絶対の自信があり、空中戦やポストプレーを得意としています。足元の技術も確かな、典型的なCFです。
気性が激しく、ピッチの内外でトラブルを起こす常習犯でもあります。

プロサッカー選手だった父親の影響を受けて幼少時代よりサッカーに親しむと、1992年にルートンの入団テストに合格し、練習生として契約を交わします。
93/94シーズンにプロデビューし、2シーズンプレーします。その後10代の選手としては破格の約5億円の移籍金で名門アーセナルへ。1995年1月14日のエヴァートン戦にてプレミアデビューを果たしますが、いきなり退場処分を受けました。シーズン途中の加入にしてはまずまずの結果を残しましたが、I・ライト、K・キャンベル、ベルカンプなど好選手がそろったクラブではレギュラーを獲得するのは難しく、出場機会を得るために96/97シーズン途中に2部のウェストハムに移籍しました。
翌シーズンには自己最多の15得点を挙げてリーグ4位に導きましたが、プレーオフの決勝に敗れたので、昇格はなりませんでした。98/99シーズンの序盤こそ活躍しましたが、暴行や器物破損などの問題行為が原因でウィンブルドンへ放出され、2シーズン目に降格します。
その後1度はスコットランドのレンジャーズやプレミアのトットナムへ移籍がまとまるかと思われましたが、いずれもメディカルチェックにひっかかってしまい、2部のコヴェントリーへ移籍します。ここでも自身の活躍も実らず再び降格しました。
01/02シーズンよりセルティックへ活躍の場を移します。名将オニール監督のもとようやく本来の実力を発揮する機会を得ることになります。柔と剛が備わった自身のプレーはスコットランドに適応することができ、ラーションやサットンなどの実力者とポジション争いにしのぎを削りつつも19得点を挙げて、リーグ優勝に貢献しました。
翌シーズンもリーグで18得点を挙げ、UEFA杯でもリーグでの勢いを持ち込み好調をキープし決勝進出を果たす原動力となりましたが、腰を痛めてしまい決勝には出られず、チームもポルトに敗れました。03/04シーズンは腰の手術などもあり満足にプレーできませんでしたが、悪いなりに結果を出して覇権奪回に貢献しました。
04/05シーズンは完全復活を果たし、25得点を挙げて自身初の得点王のタイトルを獲得。また、スコットランドリーグのMVPに選ばれるなど栄光に浴しました。翌シーズンは3度目のリーグ制覇を達成しています。06/07シーズンより、2部に降格したWBA(ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン)でプレー。レンタル先のノーウィッチでユニフォームを脱いでいます。

U−18ウェールズ代表を経て、1995年3月、ブルガリア戦でフル代表デビューしました。2004年欧州選手権予選で3得点を挙げますが、プレーオフでロシアに敗れ初の国際大会出場を逃しています。
2005年11月のキプロス戦終了後に代表から退いています。
代表記録 51試合14得点

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2008年05月27日

O・カルドーソ

O・カルドーソ

オスカル・カルドーソ
(Oscar CARDOZO)

フルネーム  オスカル・レネ・カルドーソ

国籍      パラグアイ

生年月日   1983年5月20日

出身地     J・エスティガリビア

ポジション   FW(CF)

身長/体重  193cm/87kg

個人タイトル  06パラグアイ年間最優秀選手

チームタイトル 04パラグアイリーグ

所属クラブ   2002〜04 フェブレロ
          2004〜06 ナシオナル
          2006〜07 NW・オールドボーイズ(アルゼンチン)
          2007〜   ベンフィカ(ポルトガル)

大柄ですが、それだけに頼らずポジショニングやゴールの嗅覚に優れた抜け目のないプレーが特徴的なCFです。

フェブレロなど下部リーグにて経験を積むと、04シーズンにナシオナルへ移籍します。ここで定位置をつかみゴールを量産、パラグアイ年間最優秀選手に選ばれました。
06/07シーズンにアルゼンチンへ渡ると、デビュー戦の8月6日ヴェレス戦にていきなりゴールを挙げると、以降エースとして活躍し21ゴールを記録しました。
07/08シーズンにポルトガルの強豪ベンフィカと5年契約を結びます。移籍金約15億円は同クラブで2番目の高額となりました(最高額はバルセロナから獲得したMFシモン)。
そして素晴らしい適応力を見せ、N・ゴメスと補完性の取れた2トップを組んでゴールを量産。国内でスポルティングとのダービーでゴールを挙げる活躍を見せれば、チャンピオンズリーグでも3位となりグループリーグ敗退となるも、アウェーのシャフタール戦で2ゴールを決めてマン・オブ・ザ・マッチになった試合を含め、6試合で3ゴールと役割を果たします。UEFA杯でもニュルンベルク戦でゴールを挙げるなど、初の欧州の舞台にも全く臆さない活躍を見せました。

ニューウェルスでの活躍により代表に招集され、2007年コパ・アメリカでは3試合プレー。ノーゴールに終わりましたが、準々決勝に進出しています。
代表記録

2008年05月24日

B・コネ

B・コネ

バカリ・コネ(Bakary KONE)

フルネーム  バカリ・コネ

国籍      コートジボワール

生年月日   1981年9月17日

出身地     アニャマ

ポジション   FW(RWG CF)

身長/体重  163cm/61kg

個人タイトル

チームタイトル

所属クラブ   2002〜02 ASECアビジャン
          2002〜03 アル・イテハド(カタール)
          2003〜05 ロリアン(フランス)
          2005〜   ニース(フランス)

たぐいまれなる瞬発力を持ち、豊富なスタミナと俊敏な動きで前線で相手に揺さぶりをかけるストライカー。小柄な身体からは想像もできないパンチ力のあるミドルも備えています。
実弟は同国代表FWアルナ・コネです。

ストリートサッカーに興じていたところ、首都アビジャンにあるサッカーアカデミーの創始者である・ギ・ルーに見出され入団テストを受けます。そこで抜群のテクニックを見せ付けると、わずか10分で合格しました。そしてゾコラやK・トゥーレら後に代表で同僚になる選手と同様、1999年のプロデビューまで5年間過ごしました。
2002年にカタールで1シーズンプレーし、すぐにフランスへ戻ります。ロリアンという2部のクラブと契約を交わします。当初は周囲との連係が合わず苦労しますが、時間が経つにつれて本領を発揮し、最終的にゴール数を2ケタに乗せました。さらに翌シーズンは25試合24得点と驚異的なペースでゴールを量産して格の違いを見せ付け、2部リーグの得点王と最優秀選手に選出されました。
リールやオセールなど他クラブからの注目を集める中ニースへ移籍。開幕のトロワ戦でフランスのトップリーグデビューを果たし、2戦目のトゥールーズ戦でゴールを挙げて一気スタメンに定着すると、以降は同クラブの得点源となり、07/08シーズンは1部リーグで自身初の2ケタゴールを記録し、前年に残留争いをしたクラブを8位に引き揚げる活躍を見せました。

2004年9月5日、W杯予選のスーダン戦に途中出場すると、いきなりゴールを挙げる派手な代表デビューを飾ります。主にスーパーサブとして出場し、11月のルーマニア戦では弟バカリとアベックゴールも記録しました。本大会ではグループリーグ敗退に終わりますが、3試合プレー。強豪オランダ相手に一矢報いるミドルを叩き込みました。
また、2006年アフリカ選手権でも準決勝カメルーン戦でゴールを挙げますが、決勝でエジプトに敗れます。2年後の同大会でもメンバー入りし、サブとして4試合に出場。準々決勝ギニア戦でゴールを決めています。
代表記録

2008年05月20日

ラパイッチ

ラパイッチ
ミラン・ラパイッチ(Milan RAPAIC)

フルネーム  ミラン・ラパイッチ

国籍      クロアチア

生年月日   1973年8月16日

出身地     ノバ・グラディシュカ

ポジション   MF(LMF) FW(LWG)

身長/体重  183cm/83kg

個人タイトル

チームタイトル 91/92,93/94,94/95クロアチアリーグ
          92/93,94/95クロアチアカップ
          00/01トルコリーグ

所属クラブ   1991〜96 H・スプリト
          1996〜00 ペルージャ(イタリア)
          2000〜02 フェネルバフチェ(トルコ)
          2002〜03 H・スプリト
          2003〜04 アンコーナ(イタリア)
          2004〜   S・リエージュ(ベルギー)

積極的にドリブルを仕掛け、単独で局面を打開する技巧派のサイドアタッカー。強烈なシュートや高精度のFKが武器です。コーラを大量に飲むような不摂生さとは裏腹なキレのある動きを見せ、相手を翻弄します。

91/92シーズンよりプロデビュー。リーグ優勝を経験すると、その後レギュラーに座りリーグ連覇に貢献しました。また、2度のカップタイトルも獲得しています。
96/97シーズンからイタリアのペルージャでプレー。2部降格を味わうもすぐに復帰を果たしました。弱小だったチームにおいては、自身のエゴイスティックなプレーも攻撃の糸口をつかむきっかけになることから常に主力として活躍しました。98/99シーズンから2シーズンは中田英とともに攻撃を牽引し、1部残留の原動力となりました。
00/01シーズンからトルコのフェネルバフチェでプレー。キャリア最多となるシーズン11ゴールを挙げてリーグ優勝に大きく貢献しました。
その後古巣H・スプリトを経てセリエAに復帰しますがチームは2部に降格します。それに伴い04/05シーズンからはベルギーでプレーしています。

1994年4月20日のスロヴァキア戦でフル代表デビューします。その後一時期代表から離れますがクラブでの活躍を認められ1999年2月のデンマーク戦で代表復帰します。
2002年W杯予選は2試合の出場にとどまったものの本大会メンバーに選出されます。本大会ではイタリア戦でループシュートを決めてチームを勝利に導きますが、グループリーグ敗退となりました。
その後、2004年欧州選手権予選は9試合に出場。2003年4月2日アンドラ戦では2ゴールを挙げ、アウェーでの勝ち点3獲得に貢献するなど活躍し、本大会出場を果たしました。
本大会ではW杯に続きグループリーグ敗退となりますが、全3試合に出場し、フランス戦で同点ゴールを挙げました。
2006年W杯こそ出場を逃すも、1998年W杯で共にピッチに立ったビリッチ監督の就任後、代表復帰を果たしています。
代表記録

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2008年05月19日

R・ディアス

R・ディアス
フルネーム ラモン・アンヘル・ディアス

国籍     アルゼンチン

出身地    リハオ

生年月日  1959年8月29日




経歴      1995〜03 リーベル・プレート
         2004〜05 オックスフォード・U(イングランド)
         2007〜   サン・ロレンソ

獲得タイトル 96,97,99アルゼンチン前期リーグ
         96コパ・リベルタドーレス
         97,02,07アルゼンチン後期リーグ

現役時代は、アルゼンチン代表のストライカー。1979年に東京で行われたWユースでは8ゴールを記録して得点王になり、フル代表でも1982年W杯に出場。しかしマラドーナとの確執で代表から離れたため、代表記録は24試合10得点にとどまりました。
クラブレベルではリーベル・プレートでプレーした後、主にセリエAで活躍。ナポリ、インテル、フィオレンティーナなどでプレーしました。1993年にはJリーグ横浜M(現横浜FM)に加入してV川崎(現東京V)開幕戦で決勝ゴールを決めると、シーズンでも通算28ゴールを挙げ、Jリーグの初代得点王になり、ベストイレブンにも選ばれました。

ストライカー出身だけあり、常に攻撃のスタイルを崩さない采配が特徴。司令塔を配置する4−3−1−2を基本とし、3−3−1−3にも対応する柔軟性があります。

1995年に横浜Mで現役を終えるとすぐに母国へ帰り、リーベル・プレートの監督に就任。この時点ではまだ自身はライセンスを所持していなかったため、別の資格保持者を名義だけの監督として登録するというシステムで指揮を執りました。
2シーズン目を迎え、前期リーグ開幕戦はスコアレスドローに終わったものの、それ以降は18試合で52ゴールを記録してリーグ優勝すると、リベルタドーレスではチームを2度目の優勝に導きます。
しかし、ウルグアイ代表MFフランチェスコリ、パラグアイ代表DFアジャラといった外国人に加え、オルテガ、クレスポ、ガジャルド、ソリンなどが勢揃いしていたため、「タレントの力で勝っている」と揶揄され、手腕が評価されることはありませんでした。
ですが、リベルタドーレス終了後に主力がヨーロッパへ渡ったため、チリ代表FWサラスやクルスなど的確な補強を行い、国内リーグで強さを発揮、前後期リーグを制覇しました。
1998年、クラブが財政危機に陥ったため主力の放出を余儀なくされ、前期7位、後期15位と低迷しますが、サビオラやアイマールの台頭で再びチームは上位に浮上、99シーズンの前期を制し、復活を遂げました。
これにより自身の評価は上がり国内屈指の名将の地位を確立。また、ダレッサンドロやカベナギ、デミチェリスらを実戦で起用しながら結果を残しました。しかしクラブの会長との確執があり2003年に退任しました。
イングランドに短期間渡った後、2007年からサン・ロレンソで指揮を執ります。FWラベッシやMFレデスマらを擁し、チームを6年ぶりのリーグ優勝に導いています。

2008年05月15日

オッツェ

フランク・オルデネビッツ“オッツェ”(Frank ORDENEWITZ“OTZE”)

フルネーム  フランク・オルデネビッツ

国籍      ドイツ

生年月日   1965年3月25日

出身地     ドルフマルク

ポジション   FW(CF)

身長/体重  180cm/76kg

個人タイトル  94Jリーグ得点王

チームタイトル 87/88ブンデスリーガ

所属クラブ   1983〜89 ブレーメン
          1989〜93 ケルン
          1993〜94 市原(日本)
          1994〜96 ハンブルガーSV
          1996〜96 仙台(日本)
          1996〜97 ローテンブルガーSV
          1997〜99 オルデンブルク
          1998〜01 オッテルスベルク
          2001〜05 O・シャルムベック

Jリーグ2代目得点王として日本サッカー史にその名を刻み、左足から放たれる地を這う力強いミドルに加え、足元も巧みなFW。愛称およびJリーグでの登録名は「オッツェ」です。

1983年にブレーメンでトップリーグデビューします。ドイツ代表フェラーや日本代表奥寺などとのレギュラー争いによりレベルアップを果たすと、5シーズン目に初の2ケタゴールを記録し、チームをリーグ優勝に導きます。
89/90シーズンにケルンへ移籍。いずれも後にJリーグでプレーするリトバルスキーやラーンらと共にプレー。優勝のかかった試合でゴールを挙げるも、ゴールの前にファールを犯したことを主審に申告したことでチームが優勝を逃したシーズンがありました。この行動によりFIFAからフェアプレー賞を贈られました。
93シーズン、リトバルスキーの誘いを受けて市原(現千葉)に入団し、1993年7月24日清水戦、2ndステージ開幕戦にてJリーグデビューします。3戦目の名古屋戦で2ゴールを決めJ初ゴールをマーク、その後も浦和戦やG大阪戦で2ゴールずつ挙げました。また、ナビスコ杯でも6試合で3ゴールとまずまずの活躍を見せるも予選リーグで敗れました。
本領を発揮したとは言い難いシーズンを終え、迎えた94シーズンは新人の城と2トップを組み、開幕戦から2点決めたのを皮切りにゴールを量産。2ndステージ開幕戦のG大阪戦ではハットトリックをマークし、勝敗は別としてV川崎(現東京V)、横浜M(現横浜FM)、鹿島など強豪からまんべんなくゴールを奪う見事な活躍を見せ、鹿島のアルシンドの28ゴールを交わし、得点王になりました。
94/95シーズンに母国へ復帰しハンブルガーSVに入団しますが、レギュラーを確保できずさびしい数字に終わります。
96シーズン、仙台(ブランメル、現ベガルタ)の監督となったリトバルスキーに再び勧誘されて入団。そして得点感覚が錆びついていないことを証明しますが、2部昇格はなりませんでした。
その後アマチュアリーグでプレーし、04/05シーズンにプロの舞台に戻りました。
Jリーグ:55試合37得点 JFL:28試合20得点

ユースレベルを経て、1987年12月12日ブラジル戦でフル代表デビューするも、定着には至りませんでした。
代表記録 2試合0得点
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