2012年01月08日

トラパットーニ

トラパットーニ
ジョヴァンニ・トラパットーニ
(Giovanni TRAPATTONI)

フルネーム ジョヴァンニ・トラパットーニ

国籍     イタリア

出身地   クザーノ・ミラニーノ

生年月日  1939年3月17日

経歴      1974〜76 ミラン
         1976〜86 1991〜94 ユヴェントス
         1986〜91 インテル
         1994〜95 1996〜98 バイエルン(ドイツ)
         1995〜96 カリアリ
         1998〜00 フィオレンティーナ
         2000〜04 イタリア代表
         2004〜05 ベンフィカ(ポルトガル)
         2005〜06 シュツットガルト(ドイツ)
         2006〜08 ザルツブルク(オーストリア)
         2008〜   アイルランド代表

獲得タイトル 76/77,77/78,80/81,81/82,83/84,
         85/86,88/89セリエA
         76/77,90/91,92/93UEFAカップ
         78/79,82/83コッパ・イタリア
         83/84UEFAカップウィナーズ・カップ
         84/85UEFAチャンピオンズ・カップ
         85FIFAインターコンティネンタル・カップ
         96/97ブンデスリーガ
         97/98DFBカップ
         04/05ポルトガルリーグ
         06/07オーストリアリーグ

現役時代は守備的MFロデッティと共に司令塔リヴェラの背後で献身的に動き、1960年代から70年代のミラン黄金期を支えました。
また、サン・シーロでブラジルとのフレンドリーマッチに出場した時は効果的なマーキングでペレを封じます。これがきっかけで代表に入り17試合に出場しました。

「トラップ」の愛称で知られ、名将を多く輩出するイタリアの中でもトップクラスの実績と華麗な経歴を誇る監督の一人です。UEFAが主催する大会(チャンピオンズ杯、UEFA杯、カップウィナーズ杯、スーパー杯)をすべて制し、言葉や文化が違う海外リーグでも結果を出すなど、クラブレベルでは数多くのタイトルを獲得。異なる4つのリーグでタイトルを獲った監督は、ドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダで達成したエルンスト・ハッペル監督に次いで2人目です。
一方代表レベルでは度重なる不運(2002年W杯韓国戦、2004年欧州選手権デンマーク戦、2010年W杯予選プレーオフ)もあり、思うような結果を残せていません。
優秀な選手をまとめあげる人心掌握に定評がありますが、斬新な戦術は使わず守備的なサッカーに終始しているため、結果を残しても試合内容に対し批難を浴びることが多々あります。元来マンツーマンをベースにしていましたが、プレッシングへの転換を図っています。ピッチ全体に響き渡る指笛で選手を呼び、指示を出す姿が特徴です。
また、「私の選手たちには、私の言った通りのことをする自由がある」という言葉があります。

ヴァレーゼでの引退後、古巣ミランのユースで指導者としてのスタートを切ります。自身が現役の時の指揮官だったロッコ監督に師事し、彼の指導の下で多くを学びました。
ミランでは結果を残すことができませんでしたが、直後に移ったユヴェントスではプラティニ、ボニェク、P・ロッシ、ゾフ、シレアなど攻守にワールドクラスのタレントを擁して黄金時代を築き、在籍10年間で国内リーグ6回、カップ2回、さらには欧州タイトルも手にしました。
トリノで栄光に浴した後、インテルに就任。エレーラ監督の「グランデ・インテル」以降タイトルから遠ざかっていた同クラブでしたが、クリンスマン、マテウス、ブレーメの「ドイツ・トリオ」を中心に88/89シーズンに10年ぶりのスクデットをもたらし、2年後にはUEFA杯を制しました。
2期目のユヴェントスでは、R・バッジョを中心にUEFA杯を獲得。その後ドイツのバイエルンに就任するも1年で母国に戻ります。カリアリでは不振が続き、21節終了後に解任されました。
再びバイエルンに就任すると、インテル時代の教え子クリンスマンとマテウスを攻守の軸に据え、シーズンを通してわずか3敗でリーグ優勝を達成。翌シーズンはクリンスマンの後釜にブラジル人のエウベルを獲得します。リーグでは2位でしたが、国内カップを制しました。
2年間のドイツ生活を終えて母国へ帰還しフィオレンティーナに就任。ホームでは無敗をキープするなどして前半戦を首位で折り返したものの、得点源であるバティストゥータの戦線離脱に加え、代役として期待されたエヂムンドが問題行動を起こして結果を出せず、リーグ3位に終わりました。翌シーズンはチャンピオンズ・リーグに出場、バルセロナやアーセナルと同居した1次リーグを突破しましたが、2次リーグでマンチェスター・Uとバレンシアの前に敗退しました。リーグではキエーザとミヤトヴィッチを獲得して過密日程にも耐えうる戦力を整えたものの、両者が共に期待外れとなり7位に終わりました。
その後ゾフ監督の退任に伴いイタリア代表に就任。W杯予選では、デル・ピエロ、インザーギ、トッティの前線の活躍で16得点を挙げれば、マルディーニ、ネスタ、カンナヴァーロの3バックを中心にわずか3失点と攻守に世界最高レベルの実力を見せ、6勝2分で出場権を獲得します。
本大会では一転、パヌッチを右SBに据える4バックを採用します。初戦のエクアドルに勝利したものの、2戦目のクロアチア戦でネスタが負傷して敗戦を喫します。3戦目のメキシコ戦で再び3バックに戻して先制されますが、途中出場のデル・ピエロが窮地を救い、2位でグループリーグを通過しました。開催国韓国との対戦となった決勝トーナメントの初戦はネスタとカンナヴァーロを欠きますが、ヴィエリが先制します。その後デル・ピエロを下げガットゥーゾを投入して守りを固めますが追いつかれます。そして物議を醸す判定でトッティが退場になり、ゲームメーカーが不在となります。これにより手詰まりになったまま試合は進み、相手FWアン・ジョンファンにヘディングを決められました。
2004年欧州選手権予選ではトップ下を配置する4−2−3−1を採用し、トッティを絶対的な存在として定着させます。ウェールズやセルビア・M(現セルビア)と同居したグループを首位で通過しましたが、本大会では初戦デンマーク戦でトッティがポウルセンにつばを吐き退場処分になります。この大黒柱を失ったチームは2引き分けでグループ3位となり、3戦目にカッサーノの活躍でブルガリアに勝利を収めたものの、同時刻開催のデンマーク対スウェーデン戦が2−2で終わったため、得失点差により一度も負けずしてグループリーグ敗退が決まりました。
その後はベンフィカを11年ぶりのリーグ優勝、国内カップ決勝に導いたものの、守備的な采配が災いしてその座を追われました。久しぶりのドイツ復帰となったシュツットガルトでは、クラニイやフレブ、ラームといった近年の躍進を支えた選手が退団、その穴埋めに獲得したトマソンやグロンキアとの間に確執が生まれ、9位に終わりました。
2006年にオーストリアのザルツブルクに就任します。インテルやバイエルンで時間を過ごしたマテウスをコーチに迎え、日本代表DF宮本、アレックスらを擁してリーグ優勝を果たしました。
07/08シーズン終了後にアイルランド代表に就任します。2010年W杯予選では祖国イタリアと2戦2分で終えるなど無敗をキープしましたが、フランスとのプレーオフ2ndレグでガラスのゴールをアシストしたアンリの左手にボールが当たっていたにもかかわらず、ハンドと認められませんでした。試合はドローに終わり、1stレグを落としていたチームは敗退しました。
2012年欧州選手権予選は、11試合出場のGKギヴン、11試合で7得点のFWロビー・キーンなどの活躍でロシアに次ぐ2位となります。プレーオフはエストニアと相手に恵まれ1stレグで4−0、2ndレグで引き分け、アイルランドを2002年W杯以来の国際大会に導きました。

2011年12月31日

オレアリー

デイヴィッド・オレアリー
(David O'LEARY)

フルネーム  デイヴィッド・アンソニー・オレアリー

国籍      アイルランド

生年月日   1958年5月2日

出身地     ロンドン(イングランド)

ポジション   DF(CB)

身長/体重  186cm/85kg

個人タイトル

チームタイトル 78/79,92/93FAカップ
          82/83,92/93イングランドリーグ・カップ
          88/89,90/91イングランド・フットボールリーグ

所属クラブ   1975〜93 アーセナル(イングランド)
          1993〜95 リーズ(イングランド)

アイルランドとアーセナルの最終ラインを長きに渡り支えたCB。恵まれた体躯ですが、エレガントさやポジショニングの良さが際立っており、典型的な英国のDFとは一線を画しています。

ロンドンに生まれますが、幼少期にアイルランド首都ダブリンに移ります。15歳の誕生日にアーセナルと契約を交わし、1975年8月16日バーンリー戦でリーグデビューを果たします。
そして瞬く間にレギュラーに定着し、4年目にマンチェスター・Uを破りFA杯を制します。翌年にはカップウィナーズ杯で決勝に進みましたが、バレンシアにPK戦で敗れました。80/81シーズンこそケガで離脱し24試合の出場に終わりますが、翌シーズンにリーグ杯を制します。
北アイルランド代表ジェニングス、ライス、スコットランド代表W・ヤング、イングランド代表サンソムといった面々と守備を固め、アダムスの加入でさらにそれは強固なものとなります。88/89シーズンには18年ぶりのリーグ制覇に貢献し、翌シーズンの11月にはDFジョージ・アームストロングの持つ621試合の最多出場記録を塗り替えます。さらに翌シーズンもリーグを制しましたが、加齢の影響もあり出場機会は減りました。それでも国内リーグ558試合出場、国内カップや欧州のカップ戦を含めた722試合出場はクラブ最多記録です。2位アダムスが669試合であり、移籍が活発になった現代においては事実上不滅の記録であるといえます。
93/94シーズンにリーズへフリーで移籍、リーグ5位とまずまずの結果を残しますが、アキレス腱を負傷したため翌シーズン途中に37歳で引退しました。
その後クラブにとどまり、グレアム監督のアシスタントに就任します。彼が2年後にトッテナムへ去った後は監督に昇格し、98/99シーズンにはリーグ4位になってUEFA杯出場権を獲得。翌シーズンの同大会ではベスト4に進出し、リーグも3位でチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得します。さらに00/01シーズンにはチャンピオンズ・リーグでベスト4に進出してリーグも4位になるなど、キューウェル、スミス、R・ファーディナンドら「ヤング・リーズ」を躍進させます。しかしウッドゲイトやボウヤーが警察沙汰になり、チームの成績も悪化したため辞任しました。
その後アストン・ヴィラではFWアンヘル、MFバリー、ヒツルスペルガーがそろうスカッドをまとめ、16位に沈んだチームを6位に引き上げました。2年目はラウルセンやC・コールと攻守に補強するもアンヘルら主力のケガにより10位、3年目もバロシュ、ベルガー、ミルナー、フィリップスと実績ある選手を一挙に手にしますが、16位と期待外れに終わって解任されました。
その後中東アル・アハリに就任したものの、1年で終わっています。

1976年9月8日イングランド戦で代表デビュー。2年後のW杯予選で3試合、1982年大会予選4試合、1986年大会予選で7試合に出場しますが、いずれも敗退します。
1990年W杯予選は4試合戦い、出場権を獲得します。しかしピークを過ぎていたため本大会は1試合の出場に終わりました。その後1994年大会予選も1試合プレーしています。
代表記録 68試合1得点

情報提供 football island様 http://www.football-island.net/

2011年12月24日

加茂

加茂 周
(Shu KAMO)

フルネーム 加茂 周

国籍     日本

出身地    兵庫県芦屋市

生年月日  1939年10月29日

経歴      1967〜   ヤンマーディーゼルコーチ
         1974〜89 日産自動車
         1991〜94 横浜F
         1994〜97 日本代表
         1999〜99 京都
         2001〜02 尚美学園大
         2003〜03 大阪学院大
         2007〜   関西学院大

獲得タイトル 68,70,83,85,88,93天皇杯
         71,88/89日本サッカーリーグ
         88/89JSLカップ
         95AFCダイナスティカップ

現役時代はFWとしてヤンマー(現C大阪)に所属、日本代表経験はありません。実弟は全国展開しているサッカーショップを経営しています。

長期的な視野でチームを掌握し、選手獲得や育成、環境整備などといった管理能力があり、ピッチの外でも手腕を発揮。フォーメーションは4−4−2ボックスや3−5−2を使用します。
欧州を席巻したミランのサッキ監督が提唱したゾーンプレスを、日本に取り入れたことで知られていますが、この戦術は全日空(後の横浜F)で指揮を執るようになってからのことです。
中盤をコンパクトに保ち、ボールを保持する相手を複数の選手で囲ってプレスをかけ、パスコースを限定します。そしてDFラインをフラットにして中盤まで押し上げ、最終ラインの後ろをオフサイドエリアにして相手を狭いスペースに押し込み、ボールを奪った後即座に攻撃に転じます。
この戦術は、高度な戦術眼や技術、体力など多くを求めるものであり、日本の選手では実践が難しいとされていました。それでも信念を貫き代表での限られた時間で試行錯誤しますが、採用する3バックでは中央の選手がリベロのような動きになりラインをフラットにできず、中盤のプレスもおろそかになりました。さらに藤田や前園といった攻撃的MFがプレスとゲームメークのどちらを優先させるかや、プレスをかける範囲が明確にされないなど個々の動きと組織のバランスがとれておらず、機能していたとはいえませんでした。

わずか3年余りの現役生活を退き、コーチに就任して2度の天皇杯制覇を達成。1969年にライセンスを取得し、1974年、日本初のプロ監督として日産(現横浜FM)と契約しました。
当時県リーグの所属だったチームを率いて1978年に初のJSL1部昇格を果たしますが、1980年に降格します。しかしFW金田の加入もあってすぐに1部に復帰すると、木村、マリーニョ、水沼、柱谷幸と特に攻撃面で戦力が整います。また、水沼加入の際、それまでWGだった木村を司令塔にコンバートして優れたパスセンスを引き出すことに成功しました。
かつて自身が所属していたヤンマーとの1983年の天皇杯決勝では、柱谷幸と金田のゴールにより優勝しました。この大会後、自身が育成に携わった釜本が引退を表明しました。1985年天皇杯も名門マツダ(前東洋工業、現広島)を5−0で下すなど決勝に進出し、フジタ(後の平塚、現湘南)相手に木村、柱谷幸がゴールを決めて2度目の優勝を果たしました。
その後、ブラジル代表オスカーや柱谷哲の加入により守備が安定し、88/89シーズンは、リーグ、カップ、天皇杯の三冠を達成します。その後オスカーに後を託して勇退しました。
1991年から全日空へ。DF岩井、大嶽直、MF山口素、反町、FW前田治と人材がそろい、Jリーグ開幕後はGK森、MF前園といった若手を積極的に起用します。リーグでは下位にとどまりましたが、ナビスコ杯で3位、天皇杯で自身6度目の制覇と短期決戦で結果を残しました。
日産黄金期から待望論がありましたが、前任者ファルカンの下で言葉の壁によるコミュニケーション不足を解消するための措置として、1994年に日本代表に就任します。オフト時代のラモス、都並、堀池などを再召集し、インターコンティネンタル選手権で戦術のキーマンである山口素をデビューさせますが、ナイジェリアに0−3、アルゼンチンに1−5と大敗しました。これがきっかけで相馬直、名波、藤田、森島寛などを召集して徐々に世代交代を図りました。
1995年ダイナスティ杯を制した後に欧州遠征を行います。聖地ウェンブリーでのイングランド戦ではDF井原のヘディングで同点に追い付きましたが、終了間際に柱谷哲がエリア内で手でシュートを防いで退場となり、プラットのPKで敗れました。続くブラジル戦ではR・カルロスに加え、自身退団後に横浜Fに加入したジーニョの2ゴールで完敗しました。続くスウェーデン戦ではK・アンデションに2点を献上しますが、黒崎のゴールで追い付きドローとなりました。
サウジアラビアに2連勝した後、V川崎(現東京V)を2ndステージ優勝に導いたネルシーニョ監督の代表監督就任と、自身の横浜F復帰が決まりかけていました。しかし11月22日にサッカー協会が翻意して自身と再契約し(ネルシーニョ監督による腐ったミカン発言)、西野監督率いる五輪代表との連携不足が取りざたされるなどピッチ外で厳しい局面がありました。
1996年アジア杯では五輪で活躍した前園を2列目に据え、名波をボランチに下げます。ウズベキスタン戦では両者がゴールを挙げますが、フル代表を離れていた前園と周囲との連係不足は改善されませんでした。グループリーグは3連勝しますが、準々決勝でプレスを警戒したクウェートのマチャラ監督がロングボール主体の攻撃を展開、対処できず2−0で敗れました。
1998年W杯一次予選、中田英のフル代表デビューを経て最終予選に臨みます。直前となりセントラルからホーム・アンド・アウェー方式に変更となりました。初戦こそカズの4ゴールなどで勝利しましたが、2戦目のUAE戦はドローで終わりました。3戦目の韓国戦は山口のループシュートで先制、73分に帰化して代表デビューしたFW呂比須を下げてDF秋田を投入しますが、終了間際に逆転されます。アウェーのカザフスタン戦でも、秋田のヘディングで先制しながら名波を下げて本田泰を投入しますが終了間際に追い付かれます。終盤に守備を固め逃げ切りを図りましたが2試合連続で失態を演じ、試合終了後に当地で更迭されました。
99シーズン途中に京都を率いた後は関西の大学で総監督を歴任し、解説者や講演活動など幅広く活動しています。

2011年12月18日

アビダル

アビダル
エリック・アビダル
(Eric ABIDAL)

フルネーム  エリック・アビダル

国籍      フランス

生年月日   1979年10月7日

出身地     リヨン

ポジション   DF(LSB)

身長/体重  186cm/75kg

個人タイトル  07UEFAベストイレブン

チームタイトル 04/05,05/06,06/07リーグアン
          08/09,09/10,10/11リーガ・エスパニョーラ
          08/09コパ・デル・レイ
          08/09,10/11UEFAチャンピオンズ・リーグ
          09FIFAクラブワールドカップ

所属クラブ   1999〜00 リヨン・ラドシェル
          2001〜02 モナコ
          2002〜04 リール
          2004〜07 リヨン
          2007〜   バルセロナ(スペイン)

驚異的な身体能力を誇る左利きのDF。特にジャンプ力は身長と相まって欧州屈指の強さを誇ります。左SBとCBでプレーできますが、ケガに弱いのがたまにキズです。

リヨン生まれ。郊外にあるラドルシェルというアマチュアクラブでプレーしていたところをスカウトされてモナコに入団します。2000年9月16日トゥールーズ戦でトップリーグデビュー。後にバルセロナでチームメートとなるマルケスともDFラインを形成しました。
02/03シーズンよりリールへ移籍。モナコで指導を受けたピュエル監督のもとで再びプレーし、レギュラーに定着。2シーズンで62試合に出場して1部残留に貢献しました。
04/05シーズンより生まれ故郷のリヨンへ移籍します。ブラジル代表クリス、カサッパらと共に最終ラインで堅守を築き、シーズン22失点での3連覇の原動力になりました。
以降クラブの黄金時代に欠かせない存在として君臨し、それと共に移籍市場で欧州各国のビッグクラブから注目を集めていましたが、07/08シーズンにフランス人として12人目となるバルセロナ移籍を果たし、4年契約を交わしました。
08/09シーズンは3冠を達成しましたが、2つのカップ戦決勝はいずれもサスペンションだったため、喜びをピッチで味わうことはできませんでした。10/11シーズンは国内カップ準々決勝ビルバオ戦で移籍初ゴールを決めますが、3月に病気を患い戦列を離れます。しかしR・マドリーとのチャンピオンズ・リーグ準決勝2ndレグで復帰と驚異の回復力を見せ、チームの勝利に花を添えます。マンチェスター・Uとの決勝にも先発フル出場し、勝利した後キャプテンマークを巻いてビッグイヤーを掲げました。

2004年8月18日、ドメネク政権初戦のボスニア・H戦でフル代表デビュー。2006年W杯予選には出ませんでしたが、監督からの評価は高く本大会に選出されます。左SBだったガラスがCBになったためレギュラーとなり、出場停止のトーゴ戦以外6試合に出場しました。
2008年欧州選手権予選でも11試合に先発出場と不動の地位を築きますが、本大会グループリーグのイタリア戦で退場処分を受け、チームも敗退しました。
2010年W杯予選は5試合、本大会2試合プレーしますが、内紛により早期敗退しました。
代表記録

2011年12月14日

ガンソ

ガンソ
ガンソ
(GANSO)

フルネーム  パウロ・エンリケ・シャガス・ジ・リマ

国籍      ブラジル

生年月日   1989年10月12日

出身地     アナニンデウア

ポジション   MF(OMF)

身長/体重  184cm/73kg

個人タイトル  10ブラジルカップ最優秀選手

チームタイトル 10,11サンパウロ州選手権
          10ブラジルカップ
          11コパ・リベルタドーレス

所属クラブ   2008〜   サントス

広い視野と創造性、左足での正確なコントロールを軸にしてゲームを組み立てる司令塔タイプ。無論自らゴールを狙う力も持ち合わせています。

パウロ・エンリケ・シャガス・ジ・リマ、通称ガンソはパラー州アナニンデウアに生まれます。バルセロナなどでプレーしたジオヴァンニを輩出したT・ルソで成長し、15歳でパイサンドゥへ移り、2005年にはサントスに引き抜かれます。加入2年目に右ヒザじん帯を負傷して半年間の戦線離脱となりましたが、復帰後の08シーズンにペレが背負った背番号10を託されます。
2008年2月17日R・プレト戦にて途中出場でプロデビューを果たします。2年目から主軸として本領を発揮、2009年2月15日グアラニ戦で初ゴールを挙げると、5月31日コリンチャンス戦では1試合2ゴールを挙げるなど好成績を残しました。
ネイマールやロビーニョといったFW陣との連係も冴えを見せ、10シーズンはカップに加え、サンパウロ州選手権でも19試合11ゴールと素晴らしい結果を残しますが、8月25日グレミオ戦で左ヒザのじん帯を負傷しました。その後3月12日ボタフォゴ戦での復帰を自らゴールで祝い、2節後のモジミリン戦で全ゴールをおぜん立てし、4月末のサンパウロ戦でもゴールを挙げました。リベルタドーレスでも6試合1ゴール2アシストで優勝に貢献しています。

2009年のU−20W杯にエントリーされ7試合に出場。オーストラリア戦では1得点を挙げますが、決勝にてA・アユー擁するガーナにPK戦の末敗れました。
2010年W杯ではバックアップメンバーにとどまり、終了後の8月10日アメリカ戦にてサントスでの僚友ネイマールと共にフル代表デビューを果たします。翌年のコパ・アメリカでは3アシストを見せましたが、パラグアイに封じられ準々決勝で敗退しました。
代表記録

2011年12月10日

ラタピー

ラッセル・ラタピー
(Russell LATAPY)

フルネーム  ラッセル・ラタピー

国籍      トリニダード・トバゴ

生年月日   1968年8月2日

出身地     ポートオブスペイン

ポジション   MF(OMF)

身長/体重  174cm/68kg

個人タイトル  83,85,89,96
          トリニダード・トバゴ年間最優秀選手

チームタイトル 94/95,95/96ポルトガルリーグ
          96/97ポルトガルカップ
          01/02スコットランドリーグ・カップ
          04/05スコットランドリーグ

所属クラブ   1990〜94 アカデミカ(ポルトガル)
          1994〜96 ポルト(ポルトガル)
          1996〜98 ボアヴィスタ(ポルトガル)
          1998〜01 ハイバーニアン(スコットランド)
          2001〜03 レンジャーズ(スコットランド)
          2002〜03 ダンディー・U(スコットランド)
          2003〜09 ファルカーク(スコットランド)
          2009〜09 カレドニア

広い視野、ボールキープ、ドリブル突破、スペースへの走り込みなど足元のテクニックに加え戦術眼と創造性を併せ持ったゲームメーカー。小柄な体格とドレッドヘアが特徴です。

首都ポートオブスペイン生まれ。10歳を迎えるころにはすでに卓越した技術で中心選手として活躍、U−16から代表に招集され、通算4度選ばれたトリニダード・トバゴ年間最優秀選手には16歳の若さで初選出されるなど、早熟の選手として将来を嘱望されました。
1990年W杯予選での結果への思いを断ち切るべく、ポルトガルのアカデミカへ入団。2部でしたが、毎年コンスタントに結果を出したことが認められてポルトへ引き抜かれます。
この強豪で10番を背負い、名将ボビー・ロブソンの下でユーゴスラヴィア代表ドゥルロヴィッチやポルトガル代表ドミンゴスなどの前線を生かし、リーグ連覇に貢献。翌シーズンのチャンピオンズ・リーグにもトリニダード・トバゴの選手として初めて出場しました。その後に加入したボアヴィスタでも国内カップや国内スーパー杯と結果を残しました。
98/99シーズンにスコットランドへ渡り、ハイバーニアンへ加入します。23試合6得点とプレミア昇格に貢献し、クラブ年間最優秀選手やリーグ年間最優秀選手に選ばれるなどすぐにサポーターを虜にする活躍を見せました。その後2シーズン続けてチームを1部残留に導きましたが、飲酒運転という愚行を犯し、クラブと代表双方で居場所がなくなりました。
その後、アドフォカート監督率いるレンジャーズに入団。しかし豊富な選手層の前にベンチスタートが多く、ハイバーニアン時代のマクレイシュ監督が就任すると世代交代を図ったため出場機会はわずかとなり、02/03シーズン途中でダンディーへ移籍しました。
03/04シーズンに2部フォルカークで再起を図ります。ここで輝きを取り戻し2度目の1部昇格に導いてリーグ年間最優秀選手になります。PMにも就任してクラブに不可欠の存在となり、W杯出場を果たした後の06/07シーズンは38歳にして8月の月間MVPに選ばれます。その働きぶりは元同僚ヒューズ監督や、セルティックのストラカン監督から賞賛されました。
一度母国に戻った後、エディンバラで現役生活を終えて指導者キャリアを始めています。

2年後のW杯予選となる1988年10月30日ホンジュラス戦でデビュー。通算9試合戦い、1989年11月19日、引き分けで出場権を獲得できたアメリカ戦を落としました。
1994年W杯予選は4試合、1998年W杯予選は5試合、2002年大会の予選は12試合3得点と中心として活躍しますが結果が伴いませんでした。その後二度の代表復帰要請を固辞しますが、主将ヨークの電話での要請に応えて2006年W杯予選に復帰。故郷ポートオブスペインでのグアテマラ戦で久々の代表出場ながら得点を取り、べーンハッカー監督の下でコーチ兼任として6試合プレー。大陸間プレーオフでバーレーンを下して初出場を果たします。
本大会では38歳と高齢であることもあり、パラグアイ戦での1試合にとどまりましたが、16歳から出場を夢見ていたその舞台に足跡を残しました。
2008年には代表のアシスタントコーチに就任しますが、選手として2010年W杯予選に4試合出場し、アメリカ戦で得点を決めています。
代表記録 79試合29得点

2011年12月06日

ソクラテス

ソクラテス
ソクラテス
(SOCRATES)

フルネーム  ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ

国籍      ブラジル

生年月日   1954年2月19日

出身地     ベレン

ポジション   MF(OMF)

身長/体重  192cm/79kg

個人タイトル  83南米年鑑最優秀選手(エル・ムンド紙)

チームタイトル 79,82,83サンパウロ州選手権
          86リオデジャネイロ州選手権

所属クラブ   1973〜78 ボタフォゴ
          1979〜84 コリンチャンス
          1984〜85 フィオレンティーナ(イタリア)
          1985〜87 フラメンゴ
          1988〜89 サントス
          2004〜05 ガーフォース・タウン(イングランド)

長身で懐の深いボールキープと広い視野、創造力を持ち、味方に正確なパス(特にヒールパスの技術は世界最高を誇ります)を送るだけでなく自らも多くの得点を挙げる攻撃的MFです。
長髪にヒゲを蓄えた独特の風貌、医大卒で医師免許も所持する知性、実弟ライーともども代表の中心選手であるなど、名手を多数輩出するブラジルでも不世出の選手の一人といえます。

サンパウロの医科大に在学中の20歳の時に名門ボタフォゴでプロデビューを果たします。1976年州選手権で15得点を挙げ、得点王に輝きます。
1978年にコリンチャンスへ加入し、3度の州選手権制覇を達成します。W杯での強い印象も相まって多くのオファーが舞い込み、イタリアのフィオレンティーナへの移籍が決まります。
この時期の国内は軍事政権の支配下にあり、民主化の政治活動に熱心だった自身は渡欧する前に「もし自由選挙が行われるなら海外移籍を拒否してもよい」と演説します。1980年代後半に民主化への道がすすみ、1989年に自由選挙による大統領選が行われたのです。
セリエAではアントニョーニやマッサーロ、パサレラなどと共にプレーし、25試合6得点の活躍を見せるも1年で母国へ復帰。86シーズンにはジーコと共にチームを州選手権制覇に導きます。その後サントスを経て古巣ボタフォゴへ戻り、35歳で現役生活を終えました。
引退後はサンパウロから300km離れたベイラオン・プレートで診療所を開き、スポーツ選手の治療に携わります。その傍ら、2004年末にはイングランド北部ガーフォース・タウンにてPMとして現役復帰を果たし、11月20日T・アルビオン戦で途中出場して12分間プレーしました。
2011年12月4日、腸の感染症にて57歳の若さで亡くなっています。

代表デビューは1979年5月17日パラグアイ戦。1982年W杯ではジーコ、T・セレーゾ、ファルカンと「黄金の中盤」を形成、ファルカンと中盤でバランスを取り、P・ロッシにハットトリックを決められた2次リーグ、イタリア戦での先制点など5試合2得点の成績を残しました。
翌年のコパ・アメリカで準優勝になり、2度目の出場となった1986年W杯ではファルカンとT・セレーゾがメンバーから外れ、ジーコも負傷がちという中で腕章を腕に巻き司令塔として活躍します。しかしPK戦にもつれたフランスとの試合でミスをして、ベスト8に終わりました。
代表記録 60試合22得点

情報提供 football island様 http://www.football-island.net/

2011年12月04日

沢田

沢田 謙太郎
(Kentaro SAWADA)

フルネーム  沢田 謙太郎

国籍      日本

生年月日   1970年5月15日

出身地     神奈川県鎌倉市

ポジション   DF(RSB)

身長/体重  170cm/63kg

個人タイトル  94JFL新人王
          94JFLベストイレブン

チームタイトル 

所属クラブ   1993〜98 柏
          1999〜03 広島


スピードにあふれ、タイミングのよいオーバーラップや縦への突破力が持ち味の右SB。闘志あふれるプレーでチームを鼓舞します。

大阪に生まれますが、生後まもなく神奈川県鎌倉市に転居します。小学4年からサッカーを始め、藤沢西高では1年でインターハイ、3年次に国体に出場しました。
高校卒業後に中大へ進み、1年からレギュラーを任され活躍します。4年になるとキャプテンに就任し、出場した全日本大学選手権で優勝しました。
Jリーグのクラブからもオファーが届いていましたが、JFL柏に入団。ルーキーイヤーは中盤でプレーしていましたが、2年目より右SBへコンバートされると才能が開花し、レギュラーに定着して30試合に出場。Jリーグ昇格の原動力となって新人王とベストイレブンに選ばれました。
翌シーズンにプロ契約を結び、開幕のアウェー清水戦でJリーグデビューします。翌シーズンのアウェー横浜F戦で初ゴールをマークしました。
98シーズンに西野監督が就任、3バック採用によりスタメンから外れましたが、人材不足や成績不振で4バックに戻ると再び出場機会を得ます。しかしその後薩川やホン・ミョンボと優秀なCBの相次ぐ加入により3バックを実行できる目処が立ったため、戦力外通告を受けました。
99シーズンに広島へ移籍します。C大阪との開幕戦は敗れはしたもののゴールを挙げると、しばらく鳴りを潜めていたエネルギッシュなプレーが復活し、チームの躍進に貢献しました。
01シーズンは駒野が台頭してきたため、左やボランチとしてもプレーし、高い順応性を見せました。03シーズンはJ2での戦いとなり出場機会は大幅に少なくなりますが、チームの精神的支柱として存在感を発揮し、J1復帰を見届けて現役を引退しました。
その後は広島の下部組織でコーチを務め、後進の指導にあたっています。
JFL:42試合5得点 J1:235試合10得点 J2:2試合

1995年9月20日のパラグアイ戦で代表デビューし、その後3試合に出場しましたが、柳本啓成の台頭により定着できませんでした。
代表記録 4試合

2011年12月01日

セリミ

アデル・セリミ
(Adel SELLIMI)

フルネーム  アデル・エル・セリミ

国籍      チュニジア

生年月日   1972年11月16日

出身地     チュニス

ポジション   FW(ST)

身長/体重  176cm/77kg

個人タイトル  91/92,95/96チュニジアリーグ
          91/92チュニジアカップ

チームタイトル 1989〜96 クラブ・アフリカン
          1996〜98 ナント(フランス)
          1997〜98 ハエン(スペイン)
          1998〜03 フライブルク(ドイツ)
          2002〜04 クラブ・アフリカン
          2003〜04 バニヤス(UAE)

19歳のデビューから国民的英雄となったアタッカー。特にサイドをえぐる切れ味鋭いドリブル突破が武器で、チャンスメークと共にゴールを狙います。

10歳でC・アフリカンに入団し、90/91シーズンにトップデビューを果たします。2年目にはリーグとカップの2冠を達成するなど国内有数の存在となり、代表にも招集されました。
アフリカ選手権やアトランタ五輪といった国際舞台でのプレーが注目され、フランス1部ナントへ移籍します。チームは3位と好成績を収めたものの自身はわずか2ゴールに終わり、翌シーズンも精彩を欠きました。これによりスペイン2部ハエンへ新天地を求めます。ここでは48試合32ゴールと格の違いを見せつけ、復調を遂げました。
1998年W杯終了後にフライブルクへ加入、フィンケ監督により1年目から出場機会を得ると、代表の僚友FWスリマネ、MFバヤとの連係も冴え、00/01シーズンには2年連続2ケタゴールをマークして前年12位のチームを6位に導きました。しかし翌シーズンに降格しました。
シーズン途中に古巣C・アメリカに戻って復活をアピールし、UAEでキャリアを終えています。

1993年9月22日ドイツ戦でフル代表デビューします。1994年W杯予選で3試合戦いますが、本戦に進めませんでした。しかし1996年アフリカ選手権ではザンビアとの準決勝では2ゴールを挙げ、チームを準優勝に導きました。その後のアトランタ五輪ではアメリカ、ポルトガル、アルゼンチン相手に1分2敗に終わり、グループリーグ敗退となりました。
1998年W杯予選では1次予選ルワンダとの2試合で3ゴールを挙げ、最終予選と合わせて6試合プレーして母国を20年ぶりのW杯に導きます。しかし本戦ではイングランド、コロンビア、ルーマニアの前にグループリーグ敗退に終わっています。
2002年W杯予選では、クラブでのプレーを優先させ召集を拒否したためわずか3試合の出場。しかし本大会メンバーにエントリーされ、日本戦以外の2試合プレーしています。
代表記録 35試合10得点

所属クラブ

2011年11月25日

ミルナー

ミルナー
ジェームズ・ミルナー
(James MILNER)

フルネーム  ジェームズ・ミルナー

国籍      イングランド

生年月日   1986年1月4日

出身地     リーズ

ポジション   MF(RMF)

身長/体重  176cm/70kg

個人タイトル  09/10イングランド年鑑最優秀若手選手(PFA)

チームタイトル 10/11FAカップ

所属クラブ   2002〜04 リーズ
          2004〜06 ニューカッスル
          2005〜06 アストン・ヴィラ
          2006〜08 ニューカッスル
          2008〜10 アストン・ヴィラ
          2011〜   マンチェスター・C

中盤のあらゆる位置に適応し、両足を使うテクニックでの意外性と速さを兼備したドリブル、アーリークロスが特長。しかしその攻撃センスに溺れることなく、衰えない闘争心で90分間ハードワークを続ける献身的な姿勢が何よりの長所です。

リーズ西部ホースファースに生まれます。両親がシーズンチケットを購入していたほどのリーズサポーターだったこともあり、自身もこの影響を受けてエランド・ロードに足しげく通い、オランダ代表FWハッセルバインクらの活躍を観て育ちました。
このあこがれのクラブの下部組織に10歳から所属し、弱冠16歳で迎えた2002年11月10日ウェストハム戦にて、16歳309日という史上2番目の若さでプレミアデビューします(最年少は1999年にコヴェントリーでアストン・ヴィラ戦に出場したG・マクシェフリィの16歳198日)。
そして12月26日サンダーランド戦で初得点を挙げ、16歳357日というルーニーの記録を3日塗り替えました(その後G・ヴォーンに更新されています)。勢いに乗り2日後のチェルシー戦でも得点を挙げて勝利に貢献、相手のラニエリ監督からベテランのような落ち着きであると称賛を浴び、GKロビンソンやFWスミスと共に将来を嘱望される存在になります。
2年目は30試合に出場するもクラブが2部に降格し、財政難に陥っていたためニューカッスルへ移籍します。バックアッパーとしての役割がほとんどでしたが25試合に出場、UEFA杯でも12試合プレーしベスト8に進出するなど、ロブソン、スーネス、ローダー、アラダイスと4人の監督に重用されました。05/06シーズンに一度アストン・ヴィラにレンタル移籍しました。
06/07シーズンに復帰してスタメンを2年間張った後、再度アストン・ヴィラに移籍します。オニール監督の下、ヤング、バリー、アグボンラホルらと共にビッグ4を脅かし、3年連続でUEFA杯出場権を獲得します。09/10シーズンはリーグで36試合7得点でプレミア最優秀若手選手とベストイレブンに選ばれ、ヨーロッパリーグで1点、リーグ杯で4点と得点力も見せました。
W杯での活躍もあり、翌シーズンにS・アイルランドとのトレードでマンチェスター・Cへ移籍します。同時に入団したシルヴァとサイドからの崩しで推進力となり、チャンピオンズ・リーグ出場権を獲得。FA杯でもレスター戦で2点に絡む活躍などクラブ42年ぶりの優勝に貢献しました。
2年目はナスリの加入があり、ターンオーバーを敷くマンチーニ監督にとって過密日程を戦うチーム力を落とさない存在になっています。

U−15より結果を出して2003年Wユースにも出場しましたが、グループリーグで敗退します。4年後のU−21欧州選手権に出場し、準決勝オランダ戦では13−12という壮絶なPK戦となります。自身は2度の機会を確実に決めましたが、実らず敗れました。
2年後の同大会ではグループリーグのスペイン戦で得点を決めます。準決勝スウェーデン戦ではPK戦となり、1番手のキッカーとして臨むも失敗、しかし相手が2度ミスしたためことなきを得ます。しかし決勝でエジルらの得点でドイツに敗れ、またもタイトルを逃しました。18歳の時からプレーしていたU−21でのキャップ数は歴代最多の46試合となりました。
フル代表デビューは8月12日オランダとの親善試合。2010年W杯予選で3試合に出場。本大会でもスロヴェニア戦でデフォーの決勝点を演出するなど3試合に出場しました。
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