2009年01月08日

マイスル

マイスル
ヒューゴ・マイスル
(Hugo MEISL)

フルネーム  ヒューゴ・マイスル

国籍     オーストリア

出身地    マレソフ(チェコ)

生年月日  1881年11月16日


経歴     1912〜14 1919〜37 オーストリア代表

獲得タイトル 36ベルリンオリンピック銀メダル

ユダヤ人の裕福な家に生まれます。幼少時に首都ウイーンに引越し、商業学校を卒業。銀行の事務員として働いていました。しかしサッカーへの情熱をたぎらせ、収入の良い銀行の仕事を捨ててまで、オーストリアにおけるサッカーの技術を完成させ、必要とされていた基盤を作ることに専念。1920年から1930年代は、オーストリアサッカー協会の事務総長も務めました。

1930年代に世界を席巻したオーストリア代表史上最強の「ヴンダーチーム=驚異のチーム」を率いた監督。レフェリーとしても活躍しました。
また、ミトローパ杯(現欧州選手権)やチャンピオンズ・リーグの原型ともいえる中部ヨーロッパ杯の創始者の一人でもあり、FKオーストリアを欧州屈指の強豪に仕立て上げました。
友人でもあるイングランド人のジミー・ホーガンやハーバート・チャップマン、イタリア人のヴィットーリオ・ポッツォらの影響を受け、ショートパスでつなぐテクニカルなスタイルを取り入れ、2−3−5のいわゆる「W−M」フォーメーションを採用します。

友人の一人ジミー・ホーガンを1912年にオーストリア代表に招いて英国の技術を母国に持ち込むと、自身もメンバーであるウイーンのクリケットクラブの1支部をサッカークラブ(ヴィーナー・アマチュア・スポーツクラブ)にしました。後のFKオーストリアとなったこのチームは、1933年と1936年のミトローパ杯を制しました。1912年12月22日、31歳にして代表監督として最初の采配を振るい、ジェノバでのイタリア戦で3−1の勝利を収めました。
2年弱指揮を執った後、5年間は第一次世界大戦の兵役に従事します。その間の代理監督と連絡を取り続け、終戦後の1919年に復帰しました。
戦後、オーストリア代表が黄金時代を迎えたためプロ化を推進。事務総長として再びホーガンと共に代表チームを作り、彼の「じゅうたんの上にキープする」思想は、1930年代の自国、20年後の隣国ハンガリー代表(マジック・マジャール)に大きな影響を与えました。
その成果は、1931年4月12日の対チェコ・スロヴァキア戦の2−1の勝利から始まる14試合無敗(11勝3分け)の記録を作ることで表れます。「紙の男」と呼ばれた同国代表史上に残るファンタジスタ、シンデラーとグシュバイドルの、後に「夢のペア」と呼ばれる両者を軸にポゼッションサッカーを展開、特にドイツ戦では、アウェーで6−0、ホームで5−0と、世界屈指の強豪相手に圧勝する素晴らしい結果となりました。また、5月16日にウィーンでのスコットランド戦でも5−0と大勝し、スコットランドに大陸で初めて土をつけました。
1932年12月7日、スタンフォードブリッジでのイングランド戦ではカウンターに苦しみ、無敗記録が3−4のスコアで止められましたが、華やかさと屈強さを披露した好ゲームとなりました。
その後再び無敗は続き、「ヴンダーチーム」は絶頂期から数年過ぎたとはいうものの、2回目の国際的な見せ場で勝利する高い確率があることを、W杯本戦の前日、真新しいトリノのスタジオ・ムッソリーニでの親善試合イタリア戦に4−2で勝利したことによって示しました。
迎えた1934年W杯(トーナメント制)、トリノで行われた初戦フランス戦は延長になりますが、シンデラー、シャル、ビカンのゴールで3−2、続くボローニャでの準々決勝ハンガリー戦ではホルバートとツィシェクのゴールにより2−1と勝利を収めました。
ミラノのサン・シーロでの盟友ポッツォ監督率いる準決勝イタリア戦では、ハンガリーとの試合で選手が疲弊し、豪雨によるピッチコンディション、運動量の豊富なヨハン・ホルヴァートの負傷離脱など悪条件が重なります。20本余りのシュートを相手GKジャンピエロ・コンビに浴びせたものの、エンリコ・グアイタのゴールにより敗れ、3位決定戦のドイツ戦でも試合開始早々にゴールを献上。結局2−3に終わり、4位となりました。しかし、1931年4月から1934年6月まで、31試合中わずか3敗しかせず、ゴール数は101という驚異的な記録を残しました。
2年後のベルリン五輪では、チームを主要国際サッカートーナメント初の決勝に導きましたが、1−2と再びイタリアにタイトル獲得を阻まれました。
1937年1月24日、パリでのフランス戦で2−1の勝利をおさめたのが最後の代表試合となり、数週間後に55歳の若さでこの世を去りました。

その後、オーストリア代表はヒトラー率いるナチス・ドイツに併合され消滅の憂き目に遭います。自身のそれまでの功績を無にするかのような出来事であり、自身と同じユダヤ人であるシンデラーは将来を悲観して自殺、35年の短い生涯を終えています。
この出来事により、「ヴンダーチーム」の時代は、終わりを告げました。
tatsuya0108 at 00:00 │Comments(0)TrackBack(0)スポーツ  | 海外サッカー

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