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<title>サッカー選手名鑑～このブログ、詳しすぎ（の予定）につき・・・～</title> 
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<modified>2009-11-10T00:06:57Z</modified> 
<tagline><![CDATA[できる範囲でがんばります。ダメだし大歓迎。当方経験浅いのでぜひご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。

コメントをくださる方々には、御礼申し上げます。大変励みになります。

最新及び詳細情報は、リンク集最上段の「サッカー選手名鑑～このホームページ、詳しすぎ（の予定）につき・・・～」よりご覧いただけます。

Copyright(C) 2006-09 wakaryu.All rights reserved.]]></tagline> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108</id> 
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<name>tatsuya0108</name> 
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<copyright>Copyright (c) 2009, tatsuya0108 </copyright>
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<title>インス</title> 
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<modified>2009-11-09T15:06:08Z</modified> 
<issued>2009-11-10T00:06:08+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1335671</id> 
<summary type="text/plain">
ポール・インス
(Paul INCE)

フルネーム　　ポール・インス

国籍　　　　　　イングランド

生年月日　　　１９６７年１０月２１日

出身地　　　　　イルフォード

ポジション　　　ＭＦ（ＤＭＦ　ＣＭＦ）

身長／体重　　１７９ｃｍ／７７ｋｇ

個人タ...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
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<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/b/4/b4563bda.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/b/4/b4563bda-s.jpg" width="160" height="252" border="0" alt="インス" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
ポール・インス<br>
(Paul INCE)<br>
<br>
フルネーム　　ポール・インス<br>
<br>
国籍　　　　　　イングランド<br>
<br>
生年月日　　　１９６７年１０月２１日<br>
<br>
出身地　　　　　イルフォード<br>
<br>
ポジション　　　ＭＦ（ＤＭＦ　ＣＭＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１７９ｃｍ／７７ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　８９／９０，９３／９４ＦＡカップ<br>
　　　　　　　　　　９０／９１ＵＥＦＡカップウィナーズ・カップ<br>
　　　　　　　　　　９２／９３，９３／９４ＦＡプレミアシップ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９８６～９０　ウェストハム<br>
　　　　　　　　　　１９８９～９５　マンチェスター・Ｕ<br>
　　　　　　　　　　１９９５～９７　インテル（イタリア）<br>
　　　　　　　　　　１９９７～９９　リヴァプール<br>
　　　　　　　　　　１９９９～０２　ミドルスブラ<br>
　　　　　　　　　　２００２～０６　ウォルバーハンプトン<br>
　　　　　　　　　　２００６～０７　スウィンドン<br>
　　　　　　　　　　２００６～０７　マックルスフィールド<br>
<br>
高い身体能力とすさまじい運動量を武器に、執拗なマンマークと流血さえいとわない荒々しいボディコンタクトでボールを奪取、時折見せる強力なミドルでゴールを狙うこともあります。<br>
力強いプレーと共に強烈なキャラクターとキャプテンシーの持ち主でもあり、「イングランドの心臓」と呼ばれるほど、中盤で絶大なる存在感を発揮します。<br>
<br>
少年時代に応援していたウェストハムに練習生として入団し、８６／８７シーズンの９月３０日ニューカッスル戦でトップリーグデビューを果たします。その後レギュラーとして中盤に君臨したもののチームが降格となったため、マンチェスター・Ｕに引き抜かれます。ブライアン・ロブソンと中盤でコンビを組み、９０／９１シーズンに決勝でバルセロナを下しカップウィナーズ杯を手にすると、９２／９３シーズンからのリーグ連覇にも貢献しました。<br>
９５／９６シーズン、下部組織からのバットの台頭によりセリエＡへ活躍の場を移します。サモラーノ、カヌ、ジョルカエフといった豪華な攻撃陣をスフォルツァ、ヴィンターらと共に支え、２年目にはＵＥＦＡ杯で決勝にコマを進めますが、シャルケに敗れました。リーグでは及第点の結果を出しますが、人種差別問題にさらされたこともありイタリアでの生活は２年で終わりました。<br>
リヴァプールではチームの中心となりましたが、９９／００シーズンに就任したウリエ監督が若いジェラードを起用するため構想から外れ、ミドルスブラへ移籍します。かつての僚友ロブソン監督の下、ガスコインと中盤でコンビを形成。キャプテンとしてもチームをプレミア残留に導き、クラブとの契約が満了します。その後はウォルバーハンプトンのプレミア昇格に貢献しました。<br>
一度は現役引退を考えていたものの、クラブからの要請を受けて現役続行を決意、チームは残念ながら降格したものの、その後２シーズンプレー、０６／０７シーズンを最後に引退しました。<br>
その後は指導者となり、０８／０９シーズン、マンチェスター・Ｃへ移ったヒューズ監督の後任としてブラックバーンに就任。黒人として初めてイングランドのトップリーグで指揮を執ることになりましたが、成績不振によりシーズン途中で解任されています。<br>
<br>
１９９２年９月９日スペイン戦で代表デビュー。翌年６月９日アメリカ戦ではプラットやアダムスの欠場により黒人初のイングランド代表キャプテンになるなど不動の地位を確立させます。<br>
１９９６年欧州選手権で４試合に出場すると、１９９８年Ｗ杯予選では最終節で流血するもののピッチに立ち続け、治療後も止血できない中ユニフォームを赤く染めながらも終了までプレーする気迫を見せました。本大会でも全４試合に出場。アルゼンチン戦でのベッカム退場後の奮闘は、メディアから母国の名誉を守ったと報じられました。<br>
２０００年欧州選手権でも３試合プレーしています。<br>
代表記録　５３試合２得点<br>
<br>
情報提供　football island様　<a href="http://www.football-island.net/">http://www.football-island.net/</a>]]> 
</content>
<author>
<name>tatsuya0108</name> 
</author>
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<title>スクラヴィー</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1335209.html" />
<modified>2009-11-08T15:00:20Z</modified> 
<issued>2009-11-09T00:00:20+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1335209</id> 
<summary type="text/plain">
トマス・スクラヴィー
(Tomas SKUHRAVY)

フルネーム　　トマス・スクラヴィー

国籍　　　　　　チェコ

生年月日　　　１９６５年９月７日

出身地　　　　　チェスキー・ブロド

ポジション　　　ＦＷ（ＣＦ）

身長／体重　　１９３ｃｍ／９１ｋｇ

個...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1335209.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/9/3/931fe6a4.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/9/3/931fe6a4-s.jpg" width="159" height="218" border="0" alt="スクラヴィー" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
トマス・スクラヴィー<br>
(Tomas SKUHRAVY)<br>
<br>
フルネーム　　トマス・スクラヴィー<br>
<br>
国籍　　　　　　チェコ<br>
<br>
生年月日　　　１９６５年９月７日<br>
<br>
出身地　　　　　チェスキー・ブロド<br>
<br>
ポジション　　　ＦＷ（ＣＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１９３ｃｍ／９１ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　８３／８４，８６／８７，８７／８８，８８／８９，８９／９０<br>
　　　　　　　　　　チェコ・スロヴァキアリーグ<br>
　　　　　　　　　　８３／８４，８７／８８，８８／８９<br>
　　　　　　　　　　チェコ・スロヴァキアカップ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９８２～８４　スパルタ・プラハ<br>
　　　　　　　　　　１９８４～８６　ＲＨチェブ<br>
　　　　　　　　　　１９８６～９０　スパルタ・プラハ<br>
　　　　　　　　　　１９９０～９６　ジェノア（イタリア）<br>
　　　　　　　　　　１９９６～９６　スポルティング（ポルトガル）<br>
　　　　　　　　　　１９９６～９７　Ｖシズコフ<br>
<br>
１９０ｃｍを超える大型ＦＷ。エリア内でのポストプレーや空中戦に絶対の自信を誇り、ポジション感覚にも優れています。また、毎年２ケタ以上のゴールが計算できる安定感も魅力です。<br>
<br>
強豪スパルタ・Ｐでキャリアをスタートさせますが、当初は出場機会に恵まれませんでした。しかしＲＨチェブにレンタル移籍した後は徐々に持てる才能を発揮し、８５／８６シーズンに初の２ケタゴールを記録しました。８６／８７シーズンにスパルタに復帰してからはエースとして活躍し、国内リーグ４連覇などの原動力となりました。<br>
９０／９１シーズンにイタリアの古豪ジェノアへ移籍します。ウルグアイ代表カルロス・アギレラと２トップを組み、ゴールランキング３位の１５ゴールを挙げ、チームをリーグ４位に導きます。９４／９５シーズンにはセリエＡ初の日本人選手であるカズと２トップを組む機会もあり、１２月４日サンプドリアとのジェノバダービーでは、ポストプレーからカズのアジア人によるセリエＡ初ゴールをアシストしました。<br>
ジェノアに在籍中、セリエＡでは５７ゴールを挙げてクラブにその名を刻んだあと、スポルティング、Ｖ・シズコフと渡り歩き現役を引退しました。その後は解説者として活躍しています。<br>
<br>
クラブでの活躍が認められ、２０歳の誕生日を直前に控えた１９８５年９月４日にフル代表デビューします。そして１９９０年Ｗ杯に出場。決勝トーナメント一回戦のコスタリカ戦でハットトリックを挙げるなど５試合５ゴールとエースの役割を果たし、チームをベスト８に導きました。<br>
１９９６年欧州選手権予選でもオランダ戦でゴールを挙げるなど首位での通過に貢献したものの、本大会のメンバーからは外れました。<br>
代表記録　４９試合１７得点]]> 
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<author>
<name>tatsuya0108</name> 
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<title>デュガリー</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1330755.html" />
<modified>2009-10-29T15:02:03Z</modified> 
<issued>2009-10-30T00:02:03+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1330755</id> 
<summary type="text/plain">
クリストフ・デュガリー
(Christophe DUGARRY)

フルネーム　　クリストフ・デュガリー

国籍　　　　　　フランス

生年月日　　　１９７２年３月２４日

出身地　　　　　ボルドー

ポジション　　　ＦＷ（ＬＷＧ　ＣＦ）

身長／体重　　１８９ｃｍ／７８...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
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<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/8/4/84eedc6b.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/8/4/84eedc6b-s.jpg" width="160" height="224" border="0" alt="デュガリー" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
クリストフ・デュガリー<br>
(Christophe DUGARRY)<br>
<br>
フルネーム　　クリストフ・デュガリー<br>
<br>
国籍　　　　　　フランス<br>
<br>
生年月日　　　１９７２年３月２４日<br>
<br>
出身地　　　　　ボルドー<br>
<br>
ポジション　　　ＦＷ（ＬＷＧ　ＣＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１８９ｃｍ／７８ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル　<br>
<br>
チームタイトル　９８ＦＩＦＡワールドカップ<br>
　　　　　　　　　　００ＵＥＦＡ欧州選手権<br>
　　　　　　　　　　０１ＦＩＦＡコンフェデレーションズ・カップ<br>
　　　　　　　　　　０１／０２フランスリーグ・カップ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９８８～９６　ボルドー<br>
　　　　　　　　　　１９９６～９７　ミラン（イタリア）<br>
　　　　　　　　　　１９９７～９８　バルセロナ（スペイン）<br>
　　　　　　　　　　１９９７～００　マルセイユ<br>
　　　　　　　　　　１９９９～０３　ボルドー<br>
　　　　　　　　　　２００２～０４　バーミンガム（イングランド）<br>
　　　　　　　　　　２００４～０５　カタールＳＣ（カタール）<br>
<br>
長身ですがスピードとキープ力に優れ、攻撃にタメを作ることができ、ポストプレーも堅実であるため、ＣＦ、ＷＧなど様々なポジションで高いレベルのプレーを見せます。気性が激しくカードをもらう場面も多かったものの、代表では大黒柱であるＭＦジダンとの連係が冴えを見せました。<br>
<br>
１３歳でボルドーのユースに入ると、１７歳でプロデビュー。９１／９２シーズンに２部を制し１部昇格を果たします。以降ジダンやリザラズらと共に活躍し、９５／９６シーズンにはＵＥＦＡ杯決勝に進出しますが、バイエルンに圧倒的な差を見せつけられました。<br>
ですが移籍市場で注目を集め、ミランへの入団を果たします。しかし、ウェア、Ｒ・バッジョ、シモーネ、サヴィチェヴィッチなどワールドクラスがひしめいていたためレギュラー定着には至らず、１シーズンでイタリアを後にします。続くバルセロナでも自身のポジションにはリヴァウドやＳ・アンデルソンなどが存在していたため厳しい状況に変わりはなく、シーズン途中で母国のマルセイユへ移籍します。<br>
ケガもあり常時フル出場とはいかなかったものの、９８／９９シーズンはイタリア代表ラヴァネッリと２トップを組んで活躍し、リーグ２位になりました。さらに翌シーズンのチャンピオンズ・リーグでも１次リーグ突破に貢献したものの、シーズン途中で古巣ボルドーへ復帰しました。<br>
ボルドーではポルトガル代表パウレタと２トップを組みゴールをアシスト。タイトルには手が届きませんでしたが、チームは常に上位につけていました。しかし徐々に出場機会を減らしました。<br>
０２／０３シーズン途中でバーミンガムへレンタル移籍します。１６試合で５ゴールと結果を残し、チームをプレミア残留に導きました。<br>
０４／０５シーズンにカタールへ渡り、現役生活にピリオドを打っています。<br>
<br>
１９９４年５月２６日オーストラリア戦で代表デビュー。１９９６年欧州選手権のメンバーに入ると、グループリーグ初戦のルーマニア戦でゴールを奪い、ベスト４に進出しました。<br>
１９９８年Ｗ杯では初戦の南アフリカ戦でゴールを奪うもサウジアラビア戦で負傷し、大会のほとんどをベンチで過ごしました。それでも地元開催の大会を初優勝で飾りました。<br>
２０００年欧州選手権ではグループリーグ３戦目のオランダ戦で先制ゴールを挙げてチームを勝利に導き、Ｗ杯からの連覇という偉業達成に貢献しました。<br>
２００２年Ｗ杯予選は若手の台頭で出番が減ったものの、本大会では全試合に出場しました。<br>
代表記録　５５試合８得点<br>
<br>
情報提供　football island様　<a href="http://www.football-island.net/">http://www.football-island.net/</a>]]> 
</content>
<author>
<name>tatsuya0108</name> 
</author>
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<title>ガンベリーニ</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1327123.html" />
<modified>2009-10-21T15:00:18Z</modified> 
<issued>2009-10-22T00:00:18+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1327123</id> 
<summary type="text/plain">
アレッサンドロ・ガンベリーニ
(Alessandro GAMBERINI)

フルネーム　　アレッサンドロ・ガンベリーニ

国籍　　　　　　イタリア

生年月日　　　１９８１年８月２７日

出身地　　　　　ボローニャ

ポジション　　　ＤＦ（ＣＢ）

身長／体重　　１８５ｃ...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1327123.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/b/5/b50ac092.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/b/5/b50ac092-s.jpg" width="160" height="313" border="0" alt="ガンベリーニ" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
アレッサンドロ・ガンベリーニ<br>
(Alessandro GAMBERINI)<br>
<br>
フルネーム　　アレッサンドロ・ガンベリーニ<br>
<br>
国籍　　　　　　イタリア<br>
<br>
生年月日　　　１９８１年８月２７日<br>
<br>
出身地　　　　　ボローニャ<br>
<br>
ポジション　　　ＤＦ（ＣＢ）<br>
<br>
身長／体重　　１８５ｃｍ／７８ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル<br>
<br>
所属クラブ　　　１９９９～０２　ボローニャ<br>
　　　　　　　　　　２００２～０３　Ｈ・ヴェローナ<br>
　　　　　　　　　　２００３～０５　ボローニャ<br>
　　　　　　　　　　２００５～　　　フィオレンティーナ<br>
<br>
スピードと当たりの強さを生かした粘り強い守備を身上とするＣＢであり、代表ではＦ・カンナヴァーロの後継者として期待を集めています。<br>
<br>
生まれ育った地元ボローニャの下部組織で技術を高め、２０００年１月９日のアウェー、ラツィオ戦にてセリエＡデビューを果たします。翌シーズンから１０試合以上に出場しますが、バックアッパーの域を出ず、Ｂに降格したＨ・ヴェローナへレンタルに出されます。<br>
ここでも２０試合の出場に終わりましたが、ボローニャに呼び戻され、シニョーリ、クルス、ロカテッリ、中田英といった攻撃陣を背後から支えました。復帰２年目に３０試合近く出場し、フィオレンティーナへ引き抜かれました。１年目こそ、主将ダイネッリなどの控えでしたが、２年目の０６／０７シーズンにレギュラーに定着、ウィファルシやＧＫフレイらとともに、インテルやローマなどといった上位陣をも凌駕する３１というリーグ最少失点となり、３月４日トリノ戦ではセリエＡ初ゴールを含む２ゴールを挙げるなど、攻守両面において持て余していた才能を開花させました。<br>
０７／０８シーズンは、国内リーグ４位とＵＥＦＡ杯ベスト４という好成績を残し、双方の試合で合わせて４０試合に出場、クラブの最優秀選手に選ばれました。<br>
<br>
２００４年のＵ－２１欧州選手権を制するなどユース世代を経て、２００７年１０月１７日南アフリカとの親善試合でフル代表デビューします。翌年の欧州選手権には主将カンナヴァーロの負傷離脱により追加招集されるも出番はありませんでした。<br>
２００９年コンフェデ杯ではレギュラーとなりますが、グループリーグ敗退となっています。<br>
代表記録]]> 
</content>
<author>
<name>tatsuya0108</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>石川直</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1323326.html" />
<modified>2009-10-13T15:25:06Z</modified> 
<issued>2009-10-14T00:25:06+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1323326</id> 
<summary type="text/plain">
石川　直宏
(Naohiro ISHIKAWA)

フルネーム　　石川　直宏

国籍　　　　　　日本

生年月日　　　１９８１年５月１２日

出身地　　　　　神奈川県横須賀市

ポジション　　　ＭＦ（ＲＭＦ）

身長／体重　　１７５ｃｍ／６８ｋｇ

個人タイトル　　０３...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1323326.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/d/3/d3132329.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/d/3/d3132329-s.jpg" width="160" height="226" border="0" alt="石川直" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
石川　直宏<br>
(Naohiro ISHIKAWA)<br>
<br>
フルネーム　　石川　直宏<br>
<br>
国籍　　　　　　日本<br>
<br>
生年月日　　　１９８１年５月１２日<br>
<br>
出身地　　　　　神奈川県横須賀市<br>
<br>
ポジション　　　ＭＦ（ＲＭＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１７５ｃｍ／６８ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル　　０３Ｊリーグフェアプレー賞<br>
<br>
チームタイトル　００ファーストステージ<br>
　　　　　　　　　　０１ナビスコカップ<br>
<br>
所属クラブ　　　２０００～０２　横浜ＦＭ<br>
　　　　　　　　　　２００２～　　　ＦＣ東京<br>
<br>
Ｊリーグには稀有な存在の純粋な右ＷＧ。スピードにのった切れ味鋭い縦へのドリブル突破、カットインからのミドル、高精度のクロスなどで局面を打開します。<br>
丁寧なファンサービスを信条としており、クラブでトップクラスの人気を誇ります。<br>
<br>
神奈川県横須賀市に生まれ、幼稚園時代からボールを蹴りはじめます。中学から日産ジュニアユース追浜（現横浜ＦＭジュニアユース）に加入、そのままユースに昇格しました。ユースでは当初トップ下でプレーしていましたが、サイドにコンバートされました。高校３年時にトップへの昇格が決まったものの、ヒザの半月板を手術しました。<br>
アルディレス監督から評価され、２０００年４月１日鹿島戦でＪリーグデビューを果たしますが、ヘルニアを発症して再び戦線離脱し、結局わずか２試合の出場にとどまります。<br>
０１シーズン、１ｓｔステージＧ大阪戦で初ゴールを挙げますが、チームは低迷しました。ラザロニ監督と相性が合わず、出場機会を求め０２シーズンにＦＣ東京へレンタル移籍します。<br>
時を同じくしてＦＣ東京に就任した原監督は、自身が出場したユース代表の試合で解説を務め、その才能を見出しており、即座に主力となります。そして同時に加入した右ＳＢ加地と共にサイド攻撃を活性化させ、原監督が標榜する攻撃的サッカーを体現する存在となります。０３シーズンに完全移籍すると、自己最多の２９試合に出場、フェアプレー個人賞を獲得しました。<br>
０４シーズンはリーグ戦こそ精彩を欠いたものの、オールスターに初出場し、ゴールを挙げてＭＶＰに選ばれました。また、２度目のナビスコ杯を獲得しました。<br>
０５シーズン、８月にはイタリアのクラブからオファーを受けるも、チーム事情を考慮し日本に残ります。９月１７日横浜ＦＭ戦で右ヒザ前十字じん帯と外側半月板損傷の重傷を負いました。<br>
０６シーズンの７月に復帰し、自己最多タイの５ゴールをマークします。０９シーズンは自身初のハットトリックを記録するなど、ＭＦながら得点王を争う自己最高のシーズンを送っています。<br>
<br>
Ｕ－１９から代表に招集され、アジアユースで準優勝になりました。続く２００１年Ｗユースにはレギュラーとして全３試合に出場しますが、グループリーグ敗退となりました。Ｕ－２１になると、プサンで開催された２００２年アジア大会に出場し、準優勝に貢献しています。<br>
２００３年１２月７日、東アジア選手権の香港戦でフル代表にデビューしましたが、アテネ五輪代表に合流して出場権を獲得します。しかし本大会では出番に恵まれず、最終戦のガーナ戦のみの出場におわり、試合終了後に悔し涙を流しました。<br>
縦への突破力に乏しい代表において復帰が期待される選手の一人でしたが、０９シーズンの活躍により、約５年半ぶりに代表復帰を果たしています。<br>
代表記録]]> 
</content>
<author>
<name>tatsuya0108</name> 
</author>
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<title>ドラソー</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1314024.html" />
<modified>2009-09-26T15:00:42Z</modified> 
<issued>2009-09-27T00:00:41+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1314024</id> 
<summary type="text/plain">
ヴィカシュ・ドラソー(Vikash DHORASOO)

フルネーム　　ヴィカシュ・ドラソー

国籍　　　　　　フランス

生年月日　　　１９７３年１０月１０日

出身地　　　　　アルフレール

ポジション　　　ＭＦ（ＤＭＦ　ＣＭＦ）

身長／体重　　１６８ｃｍ／６３ｋ...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
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<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/5/9/59cb2d18.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/5/9/59cb2d18-s.jpg" width="160" height="241" border="0" alt="ドラソー" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
ヴィカシュ・ドラソー(Vikash DHORASOO)<br>
<br>
フルネーム　　ヴィカシュ・ドラソー<br>
<br>
国籍　　　　　　フランス<br>
<br>
生年月日　　　１９７３年１０月１０日<br>
<br>
出身地　　　　　アルフレール<br>
<br>
ポジション　　　ＭＦ（ＤＭＦ　ＣＭＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１６８ｃｍ／６３ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　００／０１，０１／０２フランスリーグ・カップ<br>
　　　　　　　　　　０２／０３，０３／０４リーグアン<br>
　　　　　　　　　　０５／０６フランスカップ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９９３～９８　ル・アーブル<br>
　　　　　　　　　　１９９８～０１　リヨン<br>
　　　　　　　　　　２００１～０２　ボルドー<br>
　　　　　　　　　　２００２～０４　リヨン<br>
　　　　　　　　　　２００４～０５　ミラン（イタリア）<br>
　　　　　　　　　　２００５～０７　パリ・サンジェルマン<br>
　　　　　　　　　　２００７～０８　リヴォルノ（イタリア）<br>
<br>
高度な技術と運動量を併せ持ち、献身的な動きでチームを支えるＭＦ。中央、サイドをそつなくこなし、どんなフォーメーションにも対応できる融通性があります。調子の波が激しく安定感に欠ける部分が欠点です。<br>
<br>
モーリシャス人の両親のもと、フランス北西部のアルフレールに生まれます。ル・アーブルでキャリアをスタートさせ、１９９３年８月のサンテチェンヌ戦でプロデビューを果たしました。<br>
２シーズン目よりレギュラーとして活躍し、９８／９９シーズンにリヨンへ引き抜かれます。そして、マルブランクと共に中盤から攻撃を組み立て、翌シーズンから加入したＳ・アンデルソンのゴールをおぜん立てしました。ボルドーのレンタル移籍を経て、０２／０３シーズンにクラブ初のリーグ優勝をもたらし、翌シーズンは連覇も達成。クラブの黄金時代の礎を築きました。<br>
フランスでの活躍が認められ、０４／０５シーズンにミランへ加入。しかしレギュラー陣が固定されていたため出場機会を得ることができず、パリＳＧへ移籍します。<br>
そしてパウレタとＢ・カルーの後方でゲームメーカーとしてフル稼働、ゴールこそなかったもののリーグ戦では３４試合に出場しました。フランス杯決勝マルセイユ戦でゴールを挙げて２年ぶりのタイトル獲得に貢献、ＵＥＦA杯出場権を手中にしました。<br>
０６／０７シーズンは監督との折り合いが悪くシーズン途中に契約解除され、無所属の状態が続きましたが、０７／０８シーズンにリヴォルノからのオファーを受け、２度目のセリエＡに臨みます。ですが、ケガの影響もあり１試合もプレーできず退団、そのまま現役を引退しています。<br>
<br>
１９９６年のアトランタ五輪出場を経て、１９９９年３月２７日、欧州選手権予選のウクライナ戦でフル代表デビュー。２００２年Ｗ杯、２００４年欧州選手権の出場はなりませんでした。<br>
２００６年Ｗ杯予選ではドメネク監督に招集され５年ぶりの代表復帰を果たし７試合１得点を記録すると、本大会でも２試合ピッチに立っています。<br>
代表記録　１８試合１得点]]> 
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<author>
<name>tatsuya0108</name> 
</author>
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<title>マイコン</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1310540.html" />
<modified>2009-09-22T15:00:28Z</modified> 
<issued>2009-09-23T00:00:28+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1310540</id> 
<summary type="text/plain">
マイコン(MAICON)

フルネーム　　マイコン・ダグラス・シセナンド

国籍　　　　　　ブラジル

生年月日　　　１９８１年７月６日

出身地　　　　　クリシウマ

ポジション　　　ＤＦ（ＲＳＢ）

身長／体重　　１８４ｃｍ／７７ｋｇ

個人タイトル

チ...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1310540.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/b/5/b5a47dcf.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/b/5/b5a47dcf-s.jpg" width="160" height="240" border="0" alt="マイコン" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
マイコン(MAICON)<br>
<br>
フルネーム　　マイコン・ダグラス・シセナンド<br>
<br>
国籍　　　　　　ブラジル<br>
<br>
生年月日　　　１９８１年７月６日<br>
<br>
出身地　　　　　クリシウマ<br>
<br>
ポジション　　　ＤＦ（ＲＳＢ）<br>
<br>
身長／体重　　１８４ｃｍ／７７ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　０３ブラジル全国選手権<br>
　　　　　　　　　　０３ブラジルカップ<br>
　　　　　　　　　　０４，０７コパ・アメリカ<br>
　　　　　　　　　　０５，０９ＦＩＦＡコンフェデレーションズ・カップ<br>
　　　　　　　　　　０６／０７，０７／０８，０８／０９セリエＡ<br>
<br>
所属クラブ　　　２０００～００　クリシウマ<br>
　　　　　　　　　　２００１～０４　クルゼイロ<br>
　　　　　　　　　　２００４～０６　モナコ（フランス）<br>
　　　　　　　　　　２００６～　　　インテル（イタリア）<br>
<br>
体格に恵まれ、中に切れ込む迫力あるドリブルで一気に相手エリア内に攻め込みます。またクロス精度も高く、得点力も兼ね備えた超攻撃的右ＳＢです。<br>
<br>
クリシウマ生まれ。００シーズンに地元クラブでトップチームに上がりましたが、すぐにクルゼイロへ加入します。ここで１８試合に出場して以降、コンスタントにプレーする機会を獲得します。また、２００３年には国内２冠を達成しました。<br>
０４／０５シーズンにモナコに入団、開幕のサンテティエンヌ戦で欧州リーグデビューを果たします。そして不動のレギュラーとして３１試合４得点の好成績を残してリーグ３位になると、チャンピオンズ・リーグでも７試合に出場。アウェーのデポルティボ戦では初得点も挙げ、グループリーグ突破を果たしました。フランス代表左ＳＢエヴラとのサイドアタック攻撃は欧州でも注目を集め、インテルと５年契約を結びました。ポジションが重なるクラブの重鎮サネッティから定位置を確保します。０６／０７シーズンはチャンピオンズ・リーグで８試合に出場、決勝トーナメント、バレンシア戦で得点を挙げましたが、アウェーゴールの差で敗れます。この試合では相手ＤＦとの乱闘事件に関与したとして、その後の試合出場を禁止されました。また、コッパ・イタリアでも決勝でローマに敗れました。<br>
しかし、自身の加入以降スクデットを獲り続けており、国内リーグでは強さを見せています。<br>
<br>
２００１年Ｗユースでベスト８に進出した後、２年後の７月１３日メキシコ戦でフル代表デビューを果たします。翌年のコパ・アメリカでは主力として優勝に貢献、コンフェデでも２試合に出場し、優勝を果たしました。それでもカフー、シシーニョの前にＷ杯出場を逃しました。<br>
しかし監督がドゥンガになると招集を受け、Ｄ・アウヴェスと共にハイレベルなポジション争いを展開しながら、２つの国際タイトルを獲得。特に２００９年コンフェデ杯では１得点を挙げ、大会のベストイレブンにも選出されています。<br>
代表記録]]> 
</content>
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<name>tatsuya0108</name> 
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<title>古賀正</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1303473.html" />
<modified>2009-09-19T15:11:00Z</modified> 
<issued>2009-09-20T00:11:00+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1303473</id> 
<summary type="text/plain">古賀　正紘(Masahiro KOGA)

フルネーム　　古賀　正紘

国籍　　　　　　日本

生年月日　　　１９７８年９月８日

出身地　　　　　福岡県大川市

ポジション　　　ＤＦ（ＣＢ）

身長／体重　　１８５ｃｍ／７９ｋｇ

個人タイトル

チームタイトル　９９...</summary> 
<dc:subject></dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1303473.html">
<![CDATA[古賀　正紘(Masahiro KOGA)<br>
<br>
フルネーム　　古賀　正紘<br>
<br>
国籍　　　　　　日本<br>
<br>
生年月日　　　１９７８年９月８日<br>
<br>
出身地　　　　　福岡県大川市<br>
<br>
ポジション　　　ＤＦ（ＣＢ）<br>
<br>
身長／体重　　１８５ｃｍ／７９ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　９９／００天皇杯<br>
<br>
所属クラブ　　　１９９７～０６　名古屋<br>
　　　　　　　　　　２００７～　　　柏<br>
<br>
恵まれたフィジカルを擁し１対１の強さを誇るストッパーですが、インターセプトやカバーリングといった判断力の良さにも定評があります。<br>
また、もともとＦＷだったため得点センスにも秀でており、セットプレーでは得点源となります。<br>
<br>
サッカーの盛んな大川市に生まれ、小学３年時から本格的に取り組むと、ジュニアユースの候補にも選ばれます。当時はストライカーとしてプレーしていました。<br>
大川中では３年時に九州選抜に選ばれ、また、Ｕ－１６代表にも召集されるなど注目を集めます。卒業時にはＦＷ小島宏や志波監督の誘いにより、東福岡高への進学を選びました。強豪チームであり、小島のほかに山下芳輝が在籍していたため出場機会は皆無に等しく、Ｕ－１６代表の合宿時に監督からＳＢへ転向、２年時にはＵ－１７への参加時にＣＢへコンバートされます。これがきっかけでＤＦとしての才能が開花したのです。高校選手権は１年時こそ出番がなかったものの、コンバート後の２年時にはＤＦとしてベスト４進出に貢献しました。<br>
卒業時、１６ものクラブからオファーを受け名古屋に入団、１９９７年４月１２日Ｃ大阪戦との開幕戦でＪリーグデビューを果たします。当初はプロの水に慣れるまで時間がかかり、トーレスと大岩というリーグ屈指のＣＢコンビの存在などでベンチを温める時間が多かったものの、０２シーズン頃から先発メンバーに定着するようになりました。<br>
０７シーズン、１０年間過ごした名古屋を離れて柏に移籍。若手がそろうチームに豊富な経験を持ち込み、すぐに不可欠な存在となっています。<br>
Ｕ－１６を皮切りにユース世代では各年代の代表に選出され、Ｕ－１７世界選手権では小野や稲本、高原など一つ下の世代の選手からも刺激を受けました。<br>
１９９６年アジアユースでは不動のＣＢとして１９９７年Ｗユース出場権獲得に貢献したものの、本大会では出場機会はありませんでした。その後アジア大会では３試合に出場するも、２０００年シドニー五輪のメンバーには選ばれませんでした。<br>
<br>
・余談<br>
福岡や神戸などでプレーするＭＦ古賀誠史は実弟です。]]> 
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<name>tatsuya0108</name> 
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<title>バケーロ</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1295502.html" />
<modified>2009-08-23T15:30:55Z</modified> 
<issued>2009-08-24T00:30:55+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1295502</id> 
<summary type="text/plain">ホセ・マリア・バケーロ(Jose Maria BAKERO)

フルネーム　　ホセ・マリア・バケーロ・エスクデロ

国籍　　　　　　スペイン

生年月日　　　１９６３年２月１１日

出身地　　　　　ゴイステア

ポジション　　　ＭＦ（ＯＭＦ）

身長／体重　　１７２ｃｍ／７...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1295502.html">
<![CDATA[ホセ・マリア・バケーロ(Jose Maria BAKERO)<br>
<br>
フルネーム　　ホセ・マリア・バケーロ・エスクデロ<br>
<br>
国籍　　　　　　スペイン<br>
<br>
生年月日　　　１９６３年２月１１日<br>
<br>
出身地　　　　　ゴイステア<br>
<br>
ポジション　　　ＭＦ（ＯＭＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１７２ｃｍ／７１ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　８０／８１，８１／８２，９０／９１，９１／９２，<br>
　　　　　　　　　　９２／９３，９３／９４リーガ・エスパニョーラ<br>
　　　　　　　　　　８６／８７，８９／９０コパ・デル・レイ<br>
　　　　　　　　　　８８／８９，９６／９７ＵＥＦＡカップウィナーズ・カップ<br>
　　　　　　　　　　９１／９２ＵＥＦＡチャンピオンズ・カップ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９８０～８８　Ｒ・ソシエダ<br>
　　　　　　　　　　１９８８～９７　バルセロナ<br>
　　　　　　　　　　１９９６～９７　ベラクルス（メキシコ）<br>
<br>
目まぐるしく変わるピッチを、高度な戦術眼と的確な判断力で把握、巧みなポジショニングとダイレクトパスで攻守にわたり効果的なプレーを見せるＭＦ。元来ＦＷだけに強烈なヘディングや右足シュートなど攻撃センスにも長け、さらに統率力も備えるなど、多くの特長があります。<br>
<br>
Ｒ・ソシエダにてキャリアを始め、１９８０年９月６日バレンシア戦、弱冠１７歳の時にプロデビュー。初年度は２７試合に出場しますがノーゴールに終わり、翌年はケガで２試合の出場にとどまります。プロ３年目で３３試合で４ゴールと手ごたえをつかむと、４年目には初の２ケタゴールをマークしました。以降チームの得点源として長くバスク地方で活躍、この活躍が認められ、べギリスタインと共にバルセロナへ引き抜かれます。<br>
それまでＦＷとしてプレーしていましたが、クライフ監督により中盤へコンバートされます。そして、タイミングの良い飛び出しなどにより、ストイチコフやＭ・ラウドルップ、べギリスタインの３トップと、中盤の司令塔グァルディオラの橋渡し役として機能、またキャプテンも務めるなど「ドリームチーム」の精神的支柱として、クラブ黄金期になくてはならない存在となりました。特に９１／９２シーズンのチャンピオンズ杯２回戦カイザースラウテルン戦では貴重なアウェーゴールを決め、チーム初のビッグイヤー獲得への道程を作りました。９４／９５シーズンの同大会でも敗れはしましたが、準々決勝ＰＳＧ戦でゴールを挙げるなど、勝負強さを見せました。<br>
９５／９６シーズン途中でクライフ監督が退任、チームも３位でシーズンを終えると、翌シーズンの１９９６年１１月１８日バジャドリー戦、この試合でゴールを決めてバルセロナでの生活を有終の美で飾りベラクルスへ移籍、１７試合に出場して現役生活を終えました。<br>
引退後は指導者に転身しています。<br>
<br>
翌年の欧州選手権予選となる１９８７年１０月１４日オーストリア戦で代表デビューを果たし、本大会でも３試合プレーしましたが、グループリーグ敗退に終わります。<br>
１９９０年Ｗ杯ではサブでしたが、１９９４年Ｗ杯では背番号１０を身にまとい４試合プレー、ベスト８に進出しています。<br>
代表記録　３０試合７得点]]> 
</content>
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<name>tatsuya0108</name> 
</author>
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<title>ボビー・ロブソン</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1288897.html" />
<modified>2009-08-01T15:06:33Z</modified> 
<issued>2009-08-02T00:06:33+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1288897</id> 
<summary type="text/plain">
“サー”ボビー・ロブソン
(“Sir”Bobby ROBSON)

フルネーム　ロバート・ウィリアム・ロブソン

国籍　　　　イングランド

出身地　　　サクリストン

生年月日　　１９３３年２月１８日

経歴　　　　　　１９６８～６８　フルハム
　　　　　　　　　１９...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1288897.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/4/e/4e9597ca.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/4/e/4e9597ca-s.jpg" width="160" height="220" border="0" alt="ボビー・ロブソン" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
“サー”ボビー・ロブソン<br>
(“Sir”Bobby ROBSON)<br>
<br>
フルネーム　ロバート・ウィリアム・ロブソン<br>
<br>
国籍　　　　イングランド<br>
<br>
出身地　　　サクリストン<br>
<br>
生年月日　　１９３３年２月１８日<br>
<br>
経歴　　　　　　１９６８～６８　フルハム<br>
　　　　　　　　　１９６９～８２　イプスウィッチ<br>
　　　　　　　　　１９８２～９０　イングランド代表<br>
　　　　　　　　　１９９０～９２　１９９８～９９　ＰＳＶ（オランダ）<br>
　　　　　　　　　１９９２～９４　スポルティング（ポルトガル）<br>
　　　　　　　　　１９９４～９６　ポルト（ポルトガル）<br>
　　　　　　　　　１９９６～９７　バルセロナ（スペイン）<br>
　　　　　　　　　１９９９～０４　ニューカッスル<br>
<br>
獲得タイトル　７７／７８ＦＡカップ<br>
　　　　　　　　　８０／８１ＵＥＦＡカップ<br>
　　　　　　　　　９０／９１，９１／９２エールディヴィジ<br>
　　　　　　　　　９３／９４ポルトガルカップ<br>
　　　　　　　　　９４／９５，９５／９６ポルトガルリーグ<br>
　　　　　　　　　９６／９７コパ・デル・レイ<br>
　　　　　　　　　９６／９７ＵＥＦＡカップウィナーズ・カップ<br>
<br>
サクリストンに５人兄弟の４番目として生まれます。少年時代はニューカッスルのサポーターとして、セントジェームズパークに足しげく通っていました。<br>
１５歳のころには１８歳のチームに所属するなど才能を発揮、これに目を付けたフルハムに入団してプロキャリアをスタートさせます。主に前線の選手として６年間活躍し、その後のＷＢＡでの６年間を経てフルハムに復帰しました。晩年にはカナダのバンクーバーに渡りました。<br>
イングランド代表としても１９５８年Ｗ杯に出場するなど、２０試合４得点の成績を残しました。<br>
<br>
国内外で多くの成果を残しているイングランドを代表する名将。フォーメーションは伝統の４－４－２フラットですが攻撃志向が強く、サイドだけでなく中央のＭＦも攻撃的な選手を配置します。<br>
性格は温厚で人格者としても広く知られ、イングランド代表のガスコイン、ＰＳＶのロマーリオ、バルセロナのロナウドに代表される問題児をも巧みに手なずける人心掌握術も擁し、多くの選手に慕われるのはもちろん、メディアやサポーターとの関係も良好です。<br>
２００２年１１月には、ナイトの称号である“サー”を授与されています。<br>
<br>
現役最終年の１９６７年、バンクーバーで選手兼監督となります。その後母国へ帰還し古巣フルハムで監督生活を始めますがチームが降格し、引責辞任します。その後イプスウィッチに就任、これまでタイトルに恵まれなかったクラブに、７７／７８シーズンには決勝でアーセナルを下してＦＡ杯を、８０／８１シーズンには決勝でＡＺを下してＵＥＦＡ杯獲得と成果を出しました。<br>
これにより１９８２年にイングランド代表監督に指名されます。１９８６年Ｗ杯ではＧＫシルトン、ＭＦホドル、ブライアン・ロブソン、ワドル、ＦＷリネカーとタレントがそろいますが、グループリーグ２戦を終えて勝ち点１と苦しい展開となり、３戦目に若手に切り替えます。これが奏功し、リネカーがハットトリックを決めてポーランドを下し、決勝トーナメントに進出します。しかしマラドーナの神業に屈し、ベスト８で敗退しました。１９８８年欧州選手権ではＷ杯時のチームとほぼ変わらない顔ぶれでしたが、リネカーやベアズリー、バーンズといった攻撃陣が不発に終わり、全敗でグループリーグ敗退となりました。<br>
１９９０年Ｗ杯では３－４－３の布陣で臨みます。大会が全体的に守備的であり、自チームも２得点しか挙げずにグループリーグ突破を決めます。決勝トーナメントに入りベルギーに１－０、続くカメルーンには３－２の撃ち合いを制しました。準決勝西ドイツ戦ではガスコインが退場するなど苦しい展開となり、ＰＫ戦にもつれた末敗北、３位決定戦イタリア戦でも敗れ４位に終わりました。通算では９５試合戦い４７勝と、好成績を残しました。<br>
そして再びクラブシーンへ。まずオランダへ渡りＰＳＶに就任。そしていきなりリーグ２連覇を果たします。しかしチャンピオンズ杯ではグループリーグに進めなかったため解任されます。<br>
その後ポルトガルにわたります。スポルティングでは初年度こそリーグ３位となったものの、翌シーズンにＵＥＦＡ杯３回戦を敗退し、解任されました。しかしすぐに宿敵ポルトからのオファーを承諾すると、このシーズンの国内カップを獲得、翌シーズン以降リーグ２連覇を果たしました。<br>
ちなみにスポルティング時代から自身の通訳を務めるようになったジョゼ・モウリーニョに多大な影響を与えることとなり、これがバルセロナ監督時代まで続きます。自身の影響を受けた彼は、その後ポルトでチャンピオンズ・リーグ制覇、チェルシーでリーグ２連覇と大きな成果を残して世界屈指の監督の一人となりますが、自身のアドバイスには忠実に耳を傾けるようです。<br>
９６／９７シーズンにバルセロナに就任。デ・ラ・ペーニャのスルーパスにロナウドがゴールを量産、国内リーグ得点王になった彼に対し「戦術はロナウド」という最大限のほめ言葉を与え、のちにサッカー史に残る名言ともなりました。しかし彼とジェオヴァンニがリオのカーニバルで帰国するなどチーム内を掌握し切れず、宿敵Ｒ・マドリーに覇権を握られてしまいました。それでも国内カップ、カップウィナーズ杯の２冠を達成し、面目を保ちました。<br>
９８／９９シーズンにＰＳＶに復帰、ファン・ニステルローイとニリスの２トップが５２ゴールをたたきだしましたが、守備が崩壊して３位に終わりました。<br>
そして、子供のころの憧れだったニューカッスルに就任します。エースのシアラーをはじめ、ＧＫギヴン、ＭＦスピード、ロベール、ソラーノ、ＦＷベラミなど好選手を擁し、０１／０２シーズンにはチームをリーグ４位に導きチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得すると、翌シーズンの同大会、Ｄ・キエフ、フェイエノールトを交わして１次リーグを突破、２次リーグでバルセロナとインテルに道を閉ざされましたが、前回のファイナリストであるレヴァークーゼンに連勝するなど健闘しました。そして、この過酷な日程ながら国内リーグで３位と好成績を挙げました。<br>
翌シーズンのチャンピオンズ・リーグでは予備予選３回戦でパルチザンに敗れ、グループリーグ進出はならず、リーグもＵＥＦＡ杯出場権を手にするのが精いっぱいとなりました。<br>
１９９１年からガンを患っていたこともあり、この０３／０４シーズンをもって監督業から引退、その後２００６年からアイルランド代表の顧問として、ストーントン監督へアドバイスを行いました。<br>
２００９年７月３１日、７６歳で亡くなっています。]]> 
</content>
<author>
<name>tatsuya0108</name> 
</author>
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<title>ブライトナー</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1280510.html" />
<modified>2009-07-04T15:02:59Z</modified> 
<issued>2009-07-05T00:02:59+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1280510</id> 
<summary type="text/plain">
パウル・ブライトナー
(Paul BREITNER)

フルネーム　　パウル・ブライトナー

国籍　　　　　　ドイツ（西ドイツ）

生年月日　　　１９５１年９月５日

出身地　　　　　コルヴェルモール

ポジション　　　ＤＦ（ＬＳＢ）　ＭＦ（ＬＭＦ）

身長／体重　　...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1280510.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/e/a/eacf875d.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/e/a/eacf875d-s.jpg?160200" width="160" height="200" border="0" alt="ブライトナー" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
パウル・ブライトナー<br>
(Paul BREITNER)<br>
<br>
フルネーム　　パウル・ブライトナー<br>
<br>
国籍　　　　　　ドイツ（西ドイツ）<br>
<br>
生年月日　　　１９５１年９月５日<br>
<br>
出身地　　　　　コルヴェルモール<br>
<br>
ポジション　　　ＤＦ（ＬＳＢ）　ＭＦ（ＬＭＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１７６ｃｍ／７３ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル　　８１西ドイツ年間最優秀選手<br>
<br>
チームタイトル　７０／７１，８１／８２ＤＦＢカップ<br>
　　　　　　　　　　７１／７２，７２／７３，７３／７４，７９／８０，８０／８１　　　　　　　　　　　　　　　ブンデスリーガ<br>
　　　　　　　　　　７３／７４ＵＥＦＡチャンピオンズ・カップ<br>
　　　　　　　　　　７４ＦＩＦＡワールドカップ<br>
　　　　　　　　　　７４／７５，７５／７６リーガ・エスパニョーラ<br>
　　　　　　　　　　７４／７５コパ・デル・レイ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９７０～７４　バイエルン<br>
　　　　　　　　　　１９７４～７７　Ｒ・マドリー（スペイン）<br>
　　　　　　　　　　１９７７～７８　Ａ・ブラウンシュヴァイク<br>
　　　　　　　　　　１９７８～８３　バイエルン<br>
<br>
キャリアの序盤は、激しいタックル、無尽蔵のスタミナでの機を見計らった攻撃参加やパンチ力のあるシュートを武器とした左ＳＢとして台頭、その後経験を積むにつれゲームメークやフィニッシュと攻撃力が上がり、攻撃的ＭＦとしてバイエルンやドイツ代表に栄光をもたらしました。<br>
その破天荒なプレースタイルはもとより、パーマとひげをたくわえた独特の風貌、「愛読書は毛沢東語録」などのような言動も注目を集めた異端児でした。<br>
<br>
６歳でボールを蹴り始め、ユース時代はフライブルクでリベロとしてプレー。１９７０年にバイエルンへ引き抜かれますが、「皇帝」ベッケンバウアーの存在により中盤へポジションを移します。そしてＧ・ミュラーやヘーネスなどと共に牽引車となり、国内カップを手始めに、７１／７２シーズンからリーグ３連覇を果たすと、７３／７４シーズンには決勝でイングランドのリーズを下しドイツ勢として初のチャンピオンズ杯制覇を成し遂げました。<br>
１９７４年Ｗ杯終了後にＲ・マドリーへ移籍、同胞のＭＦネッツァーと共に攻撃を組み立て、リーグ２冠・２連覇の原動力になくてはならない存在となりました。Ｒ・マドリーでのの３年間を終え、ブラウンシュヴァイクではスペイン移籍を経てさらに攻撃力が増し、自身初のシーズン２ケタゴールをマークすると、７８／７９シーズンに復帰したバイエルンでもキャプテンに就き、得点源としてもルンメニゲと共に活躍、翌シーズンからのリーグ２連覇とカップ戦優勝にも多大な貢献をして見せました。８２／８３シーズン途中に負傷し、そのままスパイクを脱ぎました。<br>
引退後はバイエルンのスタッフとなっています。<br>
<br>
１９７１年６月２２日、アウェーのノルウェー戦にて代表デビュー。シュネリンガーの「３」を受け継ぎ、翌年の欧州選手権では優勝メンバーに名を連ねました。<br>
１９７４年Ｗ杯では全試合に出場。チリ戦、ユーゴスラヴィア戦ではロングシュートを、決勝オランダ戦では２２歳とチーム最年少ながら大事なＰＫを冷静に決め、優勝に大きく貢献しました。<br>
１９７５年１０月１１日、ホームのギリシャ戦を終えた後ドイツ協会と対立して代表から離れ、１９７８年Ｗ杯に出場しませんでした。その後１９８２年Ｗ杯直前に代表復帰し、キャプテン、そして攻撃の起点としてチームを準優勝に導きました。イタリアとの決勝でＰＫを決めたことで、ブラジルのババ、ペレに次ぎ複数の大会の決勝でゴールを挙げた３人目の選手となりました（４人目は２００６年大会で達成したジダン）。<br>
代表記録　４８試合１０得点<br>
<br>
情報提供　football island様　<a href="http://www.football-island.net/">http://www.football-island.net/</a>]]> 
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<name>tatsuya0108</name> 
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<title>Ｃ・マルディーニ</title> 
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<modified>2009-06-22T15:01:13Z</modified> 
<issued>2009-06-23T00:01:13+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1276921</id> 
<summary type="text/plain">
チェーザレ・マルディーニ
(Cesare MALDINI)

フルネーム　チェーザレ・マルディーニ

国籍　　　　　イタリア

生年月日　　１９３２年２月５日

出身地　　　　トリエステ

経歴　　　　　　１９７４～７６　フォッジャ
　　　　　　　　　１９７６～７７　...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1276921.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/8/7/8706c3c5.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/8/7/8706c3c5-s.jpg?160234" width="160" height="234" border="0" alt="Ｃ・マルディーニ" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
チェーザレ・マルディーニ<br>
(Cesare MALDINI)<br>
<br>
フルネーム　チェーザレ・マルディーニ<br>
<br>
国籍　　　　　イタリア<br>
<br>
生年月日　　１９３２年２月５日<br>
<br>
出身地　　　　トリエステ<br>
<br>
経歴　　　　　　１９７４～７６　フォッジャ<br>
　　　　　　　　　１９７６～７７　テルナーナ<br>
　　　　　　　　　１９７８～８０　パルマ<br>
　　　　　　　　　１９８６～９６　Ｕ－２１イタリア代表<br>
　　　　　　　　　１９９６～９８　イタリア代表<br>
　　　　　　　　　２００１～０２　パラグアイ代表<br>
<br>
獲得タイトル　９２，９４，９６ＵＥＦＡＵ－２１欧州選手権<br>
<br>
現役時代はＤＦとしてセリエＡで活躍。ミランでは４１２試合に出場し、クラブ史上数少ない主将にも就任、６２／６３シーズンはＭＦリヴェラらと共にイタリアのクラブとして初めてチャンピオンズ杯を制し、リーグ優勝も４回達成するなど、パンディエラとして一時代を築きました。<br>
代表では２５試合プレーし、１９６２年Ｗ杯にも出場。１９６７年にトリノで現役を終えています。<br>
<br>
０８／０９シーズンを最後に現役を引退したＤＦパオロ・マルディーニの父親で、１９９８年には同じチームで、２００２年ではチームは違いましたが２大会連続で親子でＷ杯に出場しました。<br>
伝統の「カテナチオ」を踏襲した守備重視のサッカーを展開します。<br>
<br>
フォッジャからキャリアを始めますが、比較的短期間でプロビンチャを渡り歩きながら主に若手育成に注力していました。そして、１９８６年より代表に携わることになります。<br>
ベアルツォット監督のアシスタントコーチとなり、１９８２年Ｗ杯で優勝、１９８６年大会も経験します。その後Ｕ－２１監督に就任すると、１０年間にわたって数多くの若手を発掘します。１９９０年のＵ－２１欧州選手権はＧＫペルッツィ、ＤＦコスタクルタ、ＦＷシニョーリらを擁し準決勝にコマを進めますが、サヴィチェヴィッチ、ミヤトヴィッチ、ボバン、シュケルらがそろった分裂前の旧ユーゴに敗れました。しかし１９９２年大会では２大会連続出場となるＦＷカジラギを中心に据えて優勝を果たします。続く１９９４年大会ではＧＫトルド、ＤＦカンナヴァーロ、パヌッチ、ＦＷヴィエリ、インザーギなど攻守のバランスに優れ、準決勝でＭＦジダン擁するフランスを、決勝で「黄金世代」のポルトガルを破りました。１９９６年もＤＦネスタやＭＦトッティ、フィオーレ、帰化したカモラネージらを率いて３連覇の偉業を達成すると共に、多くの若手をフル代表に送り込み、強化に大きく貢献しました。<br>
そして１９９８年Ｗ杯予選が始まりますが、その戦いぶりに非難が殺到し、サッキ監督がミランに就任するため、その後任として１９９６年１２月にフル代表に就任します。いきなりイングランドとの大一番に臨みますが、１－０で勝利します。しかしポーランドやグルジアに引き分けたため思うように勝ち点を積み上げられず、プレーオフに回りました。１ｓｔレグのアウェーを引き分けた後、続くホームではカジラギのゴールにより勝利、辛くも本大会出場権を手にしました。<br>
台頭したデル・ピエロをレギュラーに据え、エースだったＲ・バッジョを控えに回す起用法も大きな議論の的となりましたが、本大会では両者を召集します。しかしデル・ピエロは大会前のケガにより機能せず、Ｒ・バッジョが２ゴールを挙げる活躍を見せて復活をアピールします。しかし準々決勝でフランスにＰＫで敗れて辞任しました。その後は古巣ミランでスカウトを務めました。<br>
２００１年、既に翌年のＷ杯本大会を決めたパラグアイ代表に就任。世界有数のＧＫチラベル、リーベルで活躍するＣ・アジャラ、後にインテルでプレーするガマーラ、ボランチのパレデスなど優秀な守備陣に加え、新星サンタクルスなど好タレントを擁し、大会最高齢監督として本大会に臨みます。大黒柱のＧＫチラベルが初戦で出場停止だったため２点差を守れずドローに終わり、スペインには惨敗を喫しますが、スロヴェニア戦で勝利しグループリーグを突破します。決勝トーナメント初戦ドイツ戦では試合終了間際に決勝ゴールを許し、ベスト１６に終わりました。<br>
監督業を退いた後は解説者として活躍しています。]]> 
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<title>ボスニッチ</title> 
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<modified>2009-06-16T15:01:18Z</modified> 
<issued>2009-06-17T00:01:18+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1275039</id> 
<summary type="text/plain">
マーク・ボスニッチ
(Mark BOSNICH)

フルネーム　　マーク・ボスニッチ

国籍　　　　　　オーストラリア

生年月日　　　１９７２年１月１３日

出身地　　　　　シドニー

ポジション　　　ＧＫ

身長／体重　　１８８ｃｍ／８６ｋｇ

個人タイトル　　...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1275039.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/7/a/7ac0d236.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/7/a/7ac0d236-s.jpg?160240" width="160" height="240" border="0" alt="ボスニッチ" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
マーク・ボスニッチ<br>
(Mark BOSNICH)<br>
<br>
フルネーム　　マーク・ボスニッチ<br>
<br>
国籍　　　　　　オーストラリア<br>
<br>
生年月日　　　１９７２年１月１３日<br>
<br>
出身地　　　　　シドニー<br>
<br>
ポジション　　　ＧＫ<br>
<br>
身長／体重　　１８８ｃｍ／８６ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル　　９７オセアニア年間最優秀選手（ＩＦＦＨＳ）<br>
<br>
チームタイトル　８９／９０ＦＡカップ<br>
　　　　　　　　　　９３／９４，９５／９６イングランド・リーグカップ<br>
　　　　　　　　　　９９ＦＩＦＡインターコンティネンタル・カップ<br>
　　　　　　　　　　９９／００ＦＡプレミアシップ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９８９～９１　マンチェスター・Ｕ（イングランド）<br>
　　　　　　　　　　１９９１～９９　アストン・ヴィラ（イングランド）<br>
　　　　　　　　　　１９９９～０１　マンチェスター・Ｕ（イングランド）<br>
　　　　　　　　　　２０００～０３　チェルシー（イングランド）<br>
　　　　　　　　　　２００８～０９　Ｃ・マリナーズ<br>
　　　　　　　　　　２００９～　　　シドニー・オリンピック<br>
<br>
長身を生かしたハイボール処理と鋭い反応によるＰＫストップに定評があるＧＫ。１９９７年にはオセアニア年間最優秀選手に選ばれています。<br>
<br>
クロアチア人の移民の子としてシドニーに生まれます。地元にあるシドニー・クロアチアで猛練習に励むと、１９８８年にプロデビューを果たします。ここで５試合プレーした後マンチェスター・Ｕに引き抜かれ、１９９０年４月３０日ウィンブルドン戦でトップリーグデビューを果たしました。<br>
しかしシュマイケルの加入により出場機会が皆無となり、アストン・ヴィラへフリーで移籍します。ここで正ＧＫに君臨します。９３／９４シーズンのリーグ杯準決勝トレンメア戦では相手のＰＫを３本も止めるなど素晴らしい活躍を見せ、タイトル獲得に多大な役割を果たしました。<br>
９５／９６シーズンには自身最多の３８試合に出場してチームをリーグ４位に導くと、リーグ杯でも決勝でリーズを破り２度目の栄冠を手にしました。<br>
クラブとの契約が満了し、マンチェスター・Ｕに復帰します。インターコンティネンタル杯ではパルメイラスを破る原動力となり、リーグ２連覇にも貢献しました。しかし自身は安泰とは言えず、翌００／０１シーズンにフランス代表バルテズが加入すると出場機会がなくなり、シーズン途中でチェルシーへ移籍します。ここではケガの影響でほとんどピッチに立てない状態が続き、０２／０３シーズンにはドーピング検査で陽性反応が示され、９か月の出場停止処分となり、クラブからも解雇されました。<br>
その後、一時期ピッチから離れて選手の代理人を務めるなどしていましたが、２００８年に母国で現役復帰を果たしています。<br>
<br>
１９９２年バルセロナ五輪出場後、１９９４年Ｗ杯予選となる１９９３年５月３０日ニュージーランド戦にて代表デビューします。１９９８年Ｗ杯予選でも正ＧＫとなり、ソロモン諸島戦ではＰＫで得点を決めるなど活躍しますが、いずれも本大会出場はなりませんでした。<br>
１９９７年コンフェデ杯では決勝に進出し、ブラジルと対戦しますが、ロマーリオ、ロナウドにゴールを決められ、準優勝に終わりました。]]> 
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<name>tatsuya0108</name> 
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<title>都築</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1271178.html" />
<modified>2009-06-05T15:01:56Z</modified> 
<issued>2009-06-06T00:01:56+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1271178</id> 
<summary type="text/plain">都築　龍太
(Ryota TSUZUKI)

フルネーム　　都築　龍太

国籍　　　　　　日本

生年月日　　　１９７８年４月１８日

出身地　　　　　奈良県生駒郡

ポジション　　　ＧＫ

身長／体重　　１８５ｃｍ／８１ｋｇ

個人タイトル　　０７Ｊリーグベストイレブ...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1271178.html">
<![CDATA[都築　龍太<br>
(Ryota TSUZUKI)<br>
<br>
フルネーム　　都築　龍太<br>
<br>
国籍　　　　　　日本<br>
<br>
生年月日　　　１９７８年４月１８日<br>
<br>
出身地　　　　　奈良県生駒郡<br>
<br>
ポジション　　　ＧＫ<br>
<br>
身長／体重　　１８５ｃｍ／８１ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル　　０７Ｊリーグベストイレブン<br>
<br>
チームタイトル　０３ナビスコカップ<br>
　　　　　　　　　　０５，０６天皇杯<br>
　　　　　　　　　　０６Ｊリーグ<br>
　　　　　　　　　　０７ＡＦＣチャンピオンズ・リーグ<br>
<br>
所属クラブ　　　１９９７～０２　Ｇ大阪<br>
　　　　　　　　　　２００３～　　　浦和<br>
<br>
至近距離からのシュートに対する素早い反応や正確なポジショニング、高精度のフィードキックで攻撃の起点となるなど攻守に活躍するＧＫ。気性の激しさも特徴です。<br>
<br>
友達の影響を受け、小学２年時にサッカーを始めます。身長が高かったこともあり当初からＧＫとしてプレーしていました。５年時に６年の大会に出場するなどレベルの高さを見せつけていましたが、その大会に敗れたことで勝利への欲求がわき、本格的に取り組むようになります。中学時代は３年時に全国大会へ出場し、２回戦でＦＷ高原擁する東海一中に敗れました。<br>
高校は長崎の国見へ進みます。強豪ゆえ試合に出られるようになったのが３年からでしたが、高校選手権に出場します。ＧＫ南やＭＦ倉貫擁する静岡学園に敗れ、ベスト８に終わりました。<br>
卒業後、多数のオファーの中から熱心に勧誘してきたＧ大阪に入団。２年目の１９９８年１１月１４日磐田戦でＪリーグデビューするも、この試合のみでシーズンが終わりました。００シーズン途中、早野監督の下で正ＧＫ岡中からポジションを奪い、天皇杯でベスト４になりました。しかし０２シーズンに就任した西野監督と起用法をめぐり対立し、構想外となりました。<br>
出場機会を求め浦和へ移籍します。以降山岸範と激しいレギュラー争いを展開し、０７シーズンはアジアを制覇、クラブＷ杯でもミランと肉薄するなどインパクトを残し、Ｊリーグベストイレブンに選出されました。０８シーズン、開幕後の名古屋戦で自身のスローが相手に渡り、そのままゴールを許す信じがたいミスを犯しますが、その後もゴールマウスに立っており、不動の地位を固めつつあります。<br>
<br>
２０００年シドニー五輪では本大会登録メンバーに入りますが、オーバーエージでメンバーに入った楢崎の存在により出場機会はありませんでした。<br>
フル代表デビューは２００１年６月４日ブラジル戦。後に同僚になるワシントンを始め、Ｍ・アウヴェス、Ｊ・バティスタらを擁するチームを無得点に抑えました。４か月後のセネガル戦で２失点しＷ杯出場は叶いませんでしたが、その後もジーコ、岡田両監督に召集を受けており、Ｊリーグ屈指のＧＫであることは疑いのないところです。]]> 
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<name>tatsuya0108</name> 
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<title>クバラ</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1269187.html" />
<modified>2009-05-31T15:10:18Z</modified> 
<issued>2009-06-01T00:10:18+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:tatsuya0108.1269187</id> 
<summary type="text/plain">
ラズロ・クバラ
(Laszlo KUBALA)

フルネーム　　ラズロ・クバラ・シュテツ

国籍　　　　　　ハンガリー

生年月日　　　１９２７年６月１０日

出身地　　　　　ブダペスト

ポジション　　　ＦＷ（ＣＦ）

身長／体重　　１７６ｃｍ／８２ｋｇ

個人タイ...</summary> 
<dc:subject>スポーツ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://wakaryu8018.livedoor.biz/archives/1269187.html">
<![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/f/6/f6f679c2.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/tatsuya0108/imgs/f/6/f6f679c2-s.jpg?160250" width="160" height="250" border="0" alt="クバラ" hspace="5" class="pict" align="left"  /></a><br>
ラズロ・クバラ<br>
(Laszlo KUBALA)<br>
<br>
フルネーム　　ラズロ・クバラ・シュテツ<br>
<br>
国籍　　　　　　ハンガリー<br>
<br>
生年月日　　　１９２７年６月１０日<br>
<br>
出身地　　　　　ブダペスト<br>
<br>
ポジション　　　ＦＷ（ＣＦ）<br>
<br>
身長／体重　　１７６ｃｍ／８２ｋｇ<br>
<br>
個人タイトル<br>
<br>
チームタイトル　５０／５１，５１／５２，５２／５３，５６／５７，５８／５９<br>
　　　　　　　　　　コパ・デル・ヘネラリシモ<br>
　　　　　　　　　　５１／５２，５２／５３，５８／５９，５９／６０<br>
　　　　　　　　　　リーガ・エスパニョーラ<br>
　　　　　　　　　　５７／５８，５９／６０ＵＥＦＡフェアーズ・カップ<br>
<br>
<br>
所属クラブ　　　１９４４～４４　Ｇ・トルナ<br>
　　　　　　　　　　１９４５～４６　Ｆ・ヴァロシュ<br>
　　　　　　　　　　１９４５～４７　Ｓ・ブラチスラヴァ（チェコ・Ｓ）<br>
　　　　　　　　　　１９４８～５０　ヴァサス<br>
　　　　　　　　　　１９４９～５０　Ｐ・パトリア（イタリア）<br>
　　　　　　　　　　１９５０～５１　チネ・チッタ（イタリア）<br>
　　　　　　　　　　１９５１～６３　バルセロナ（スペイン）<br>
　　　　　　　　　　１９６２～６４　エスパニョール（スペイン）<br>
　　　　　　　　　　１９６５～６７　チューリッヒ（スイス）<br>
　　　　　　　　　　１９６７～６８　Ｔ・ファルコンズ（カナダ）<br>
<br>
３か国でのプレー経験を持つハンガリー出身のインサイド・ライト。頑強な体格から強烈なシュートが繰り出され、完璧なテクニックや得点感覚も兼備、前線で絶大な存在感を発揮します。<br>
<br>
英雄プスカシュと同様、１９２７年にハンガリーの首都ブダペストに生まれます。父親はレンガ職人、母親は工員として働いていました。地元のガンツ・トルナというクラブの下部組織に入り、１１歳の頃にはすでに年上のチームでプレーする非凡な才能を見せつけていました。<br>
１９４４年にプロデビューを果たすとすぐに強豪Ｆ・ヴァロシュに引き抜かれ、コチシュらと共にプレーします。その後Ｓ・ブラチスラヴァでも主力として活躍しました。<br>
その後母国に戻りヴァサス、イタリアのクラブにも在籍しましたが大きな活躍には至りませんでした。しかし５１／５２シーズンにバルセロナへ入団、同胞ダウシク監督により前線の核として活躍、Ｓ・ヒホン戦で７得点、セルタ戦で５得点、セビージャやラシンからはハットトリックを記録するなど、国内リーグ１９試合で２７得点と大爆発し優勝に大きく貢献します。さらに決勝でバレンシアを破り国内カップを制し、チャンピオンズ杯の前身コパ・ラティーナでは準決勝でユヴェントスを４－２で下すと、決勝でもフランスのニースを下して優勝、ラテン杯や国内スーパー杯も制し、５冠を達成しました。自身を中心とした素早い華麗なパス回しで多くのファンを魅了し、「カンプ・ノウ」建設の契機となったのです。<br>
その後コチシュやチボールといった「マジック・マジャール」のメンバーを説得して入団させ、若いＬ・スアレスやエヴァリストといった攻撃陣で他チームを圧倒、５８／５９シーズンに国内２冠を達成、フェアーズ杯（後のＵＥＦＡ杯、現ヨーロッパ・リーグ）との連覇なども達成しました。<br>
しかし「魔術師」エレーラ監督と衝突して出場機会が激減、自身の不在によりチャンピオンズ杯では準決勝で宿敵マドリーに大敗を喫しました。また、翌シーズンは同大会で決勝に進んだものの自身は出場することなく、チームもベンフィカに敗れました。バルセロナでは国内リーグで２１５試合に出場、１３８ゴールを挙げました。<br>
その後近くにあるエスパニョールに入団、ここではＰＭになり、ディ・ステファノと共にチーム力を上げました。スイスやカナダを渡り歩いて現役を終えます。その後は監督としてバルセロナなどスペイン国内を中心に指導、１９７８年Ｗ杯や１９９２年のバルセロナ五輪では代表の指揮を執り、後者では見事金メダルを獲得。１９９５年にはパラグアイ代表監督も務めました。<br>
２００２年５月１７日にバルセロナで７４歳で死去しています。<br>
<br>
１９４６年に父親が他界、これに伴い家族でチェコ・スロヴァキアへ移住し、１０月２７日アルバニア戦にて国際デビューを果たします。その後ハンガリーへ戻り、３試合プレーしました。<br>
その後スペインへ亡命して同国籍を取得、デビューを果たし１９試合で１１得点。１９５７年トルコ戦ではハットトリックも記録するなど主力として活躍していたこともあり、「マジック・マジャール」と呼ばれた全盛期のハンガリー代表でプレーすることはありませんでした。<br>
１９６２年Ｗ杯メンバーの有力候補でもありましたが、プレーすることなくキャリアを終えました。<br>
<br>
余談<br>
・一般的にはスペインでの「ラディスラオ」が使用されていますが、ここではハンガリー名の「ラズロ」を使用しております。また、チェコ・スロヴァキアでの名前は「ラディスラフ」です。<br>
・１９５３年１０月２１日には、カタルーニャ選抜としてもプレーしています。<br>
      <br>
※チェコ・スロヴァキア、スペインの国籍もあり<br>
代表記録　３試合０得点<br>
チェコ・スロヴァキア代表デビュー：１９４６・１０・２７　アルバニア戦　代表記録：６試合４得点<br>
スペイン代表デビュー：１９５３・７・５　アルゼンチン戦　代表記録：１９試合１１得点]]> 
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<name>tatsuya0108</name> 
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